↑船の中で香港名物〝臘味飯〟(味付けごはん)の夕食。
燻製ソーセージと、燻製卵と、チャーシュー。
去年の今頃って何をしていたのだろう、と、
2015年4月のブログを読み返してみた。
上海のモラー邸でアフタヌーンティーをしながら、
優雅に奇跡講座を読んだりしているではないか。
「聖霊は今、過去と未来、このすべてを取り消す。
一瞬一瞬が過去からさっぱりと切り離され、
その影が未来に及んでいないことを知るとき、
現在に恐怖はない。今この瞬間を取り上げ、
それを、存在する時間のすべてだと考えなさい。」
なんて文章を奇跡講座から抜粋して記したりしている。
ああ、感無量…!
こうして、その当時の日記の内容を見てみると、
書き留めていなかったら、忘れてしまっているような、
些細ではあるが大切な出来事が綴られている。
その当時の自分には何の自覚がなくても、
後から見てみると、その瞬間瞬間で、
自分ができる最大限のことをしていたのが分かる。
今の自分がやっていること、感じていることを、
正直に直視し、それを書き留めておくことで、
未来の自分に、
何らかの学びをもたらす事ができるのだな、と、
感慨を新たにしたのであった。
今日、仕事中にトイレに行こうと、
ビルの廊下を歩いていると、
突然、兄弟に対する強烈な思いが湧き上がってきた。
もうこれ以上、兄弟に対して何も感じていたくない。
もうこれ以上、兄弟を見て、何をも思いたくない。
いつもいつもいつも、見て、感じて、否定して…。
最悪だ。たくさんだ。まっぴら御免なんだ!
という想い…。
俺は、実相しか感じていたくないし、
父を父としてハートをハートとしてしか感じたくない。
それ以外のものは何も受けつけたくない。
代替もいらない。
また、兄弟を神の子として観る、とか、
愛を求める声として兄弟を観る、とか、
そういうのも要らない。
ひとつの感じ方、それしかほしくない。
突然やってきた電光のような強い想いに手も足も出ず、
僕はしばし、トイレの個室で、頭を抱えながら、
身動きもせずに、ただ固まっていた。
この強烈な神への思いを凝視する。
兄弟を個として見ることに何の価値も見い出せず、
うんざりしている自分がいる。
ハートのひとつの想念だけを渇望していいんだ。
と、その瞬間、僕の頭の中に、
「〝見切り〟なさい。」という声が響いた。
あっ、兄貴だ!
兄貴の声を聴くのは久しぶりだった。
〝見切り〟と聞こえたが、ひょっとすると、
〝見限り(みかぎり)〟と言われたのかもしれない。
早口だったので、確かではない。
どちらにせよ、兄貴の言わんとする意味は解かるので、
僕は黙ってうなづいた。
このとき、僕の心の中で、聖霊兄貴の領域が、
エゴの領域よりほんの少しだけ上回ったのを自覚した。
とはいっても、肉体を持ってこの夢の世界にいる間は、
純粋なハートの想念だけを感じることは不可能だろう。
しかし、もう嫌なんだ、と心から見限ることは必要だ。
人は、
それには何の価値も魅力もない、と判断したときだけ、
所有しているものを捨てることができる。
手に握っているものがダイヤモンドで、
それには価値があると少しでも思っている間は、
どうしても手放すことができないのだ。
20分くらいトイレにいて、オフィスに戻った。
別々に分離した兄弟への想いが、
神への想いへと収斂されてゆく感じがする。
まだ、ちょっと頭が混乱している。
だが、この強い意欲だけは消したくないと思った。
それにしても、なんでトイレなんだよう。