香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

〝わたし〟について



夏至の日に起こった〝自分放棄〟の体験辺りから、

〝わたし〟が丸ごとどこかへ持って逝かれつつある。

これまでは、何やかや言っても、まだ〝個のわたし〟

がしっかり存在していて、その個である僕が赦したり、

明け渡したり、聖霊兄貴と話している感覚があった。


だが、夏至の日の体験を境に、

肉体の自分が重要でなくなってきた、というか、

兄貴のほうが自分だったという体感が強くなってきた。

そうなると、


〝別に、このまま個の自分でい続ける必要性など

  ないんじゃないのか。〟

〝個の自分ではなく、兄貴が丸ごと自分になった方が

  なんか、しっくりくるような気がする。〟

〝別に兄貴が自分でもいいんじゃないだろうか。〟


というような気持ちに襲われ、それであれば、

もう、個の自分そのものを兄貴に明け渡してしまえ、

というふうになったのだ。

そうすると、兄貴のほうが本当の自分だったんだ、

という体感のほうが勝りだし、個の自分(虚の自分)が

消失を開始したというわけである。

ただ、兄貴が自分に取って代わったからと言って、

エゴの思考や分離の想いが上がってこなくなり、

全てが愛に変わってしまった、というわけではない。

また、お花畑状態で仕事をしたり、道を歩いたり、

人と話しているわけでもない。


分離の想いは絶えず上がってくるし、

個として処理しなければならない日常生活の行為、

例えば、会社の業務であるとか、銀行へ行ったり、

友人とご飯を食べたりなどは、普通にこなすのだが、

その行為をしている個人、何かを思っている個人が、

本来の自分と切り離され、しかし、

本来の自分の事もよくわかっていない状態なので、

結局、わたしは誰、状態に陥りそうになるのを、

かろうじて食い止めているという今日この頃である。


赦す場面もちゃんとやってくる。

しかし、これまでのように恐怖や憎悪の元ネタである

分離の想いを〝わたし〟が委ねていくのではなく、

赦そうとしている〝わたし〟自体が恐怖と憎悪だった、

ということに気づいて、わたしを丸ごと兄貴に捧げる。


だって分離の想いそのものの〝わたし〟が、

何かを赦すことなんてできない、と思ったのだ。


例を挙げると、昨日の夜、

アパートのエレベーターに乗ったとき、ある男性が、

車のキーの先端で自分が降りる階のボタンを押した。

自分の指を直接ボタンに触れさせたくない人たちの

こういった行為で、ボタンはすでに傷だらけだ。

途端、みぞおちの辺りに、わわわーっ、と、

言い知れぬ気持ち悪さがこみあげてくる。

あっ、この気持ちの悪さ自体がわたしそのものだった。

その〝わたし〟が神に戻るなんてあり得ない。

〝わたし〟が赦すなんて不可能だ。

〝わたし〟が憎悪や怒りを手放すことなどできない。

なぜなら〝わたし〟がそのその考えそのものだから…。



「いま、この瞬間から、わたしがあなたを操作します。

 以降、あなたは神の国へと戻る準備に入ります。」


今年2月に参加したヴィパッサナー瞑想の最中に

聞こえてきた聖霊兄貴の肉声が思い出される。


もうこの〝わたし〟は、

いつ存在を消去されてもオーケーです。

いよいよ、何の迷いもなく、はっきりと宣言できる、

そんな瞬間がやってきた。



かも…。