この人は女性とか男性とか、何歳とか、独身とか、
煙草を吸ってるとか、ズルをしているとか、
全てに勝手な意味づけをしては判断して裁き、
相手を変えよう、正そうとしている〝攻撃的な考え〟
を捉えては、自分ごと神に捧げまくり、
もうガンガンスワットで放棄しまくった結果、
突然、自分が誰なのかわからなくなり発狂寸前となる
という事態に陥ってしまった。
ちょうど週末で会社が休みだったことと、
英語が堪能な友人が翻訳して送ってくれた、
フランシスの言葉に急場を救われた。
そのとき、僕はジムで体を鍛えていた。
2時間くらい、フリーウェイトで胸を鍛えたり、
肩を鍛えたり、ジョギングをしたり、腹筋をした後、
ストレッチルームでヴィパッサナー瞑想をはじめた。
瞑想中も、投影をし続けている自分や、
外の世界に囚われている自分を、私=攻撃的考え
として、捧げまくっていた。
と突然、
もう神様の言うこと以外聞かなくていいんだ、
という瞬間が訪れ、何かがすっぽり抜けたかと思うと、
「あれ?僕って誰?」
「こんなことを考えているのは誰なんだろう。」
「〝僕〟という言葉がなんで〝僕〟なの?」
少し目を開け、鏡の壁に映る自分を見る。
ええっ、これ誰?
まるで、鉛筆を見て、なんでこれを鉛筆と呼ぶのか、
何のためにこんなものがあるのか分からない、
というような、奇妙な感覚に襲われた。
その時はもう僕という言葉すら思いつかず、
周囲にある全てのものの意味が理解できず、
自分が何者なのかも分からない状態だった。
呼吸もできなくなってきた。
そして、うろたえ、困惑した僕は、狂うのでは、
という恐怖と共に、自分を必死で探し始めた。
しかし、その一方で、もうこのまま狂ってもいいや、
という放棄の思いもあり、途中でそっちの方が
勝ったのか、途中から、もう自分なんて要らないや、
と、じっとしていると、徐々に〝僕〟が戻ってきた。
シャワールームでシャワーを浴びながら思った。
いくら消える準備ができていると豪語しながらも、
自分はまだ個の自分が消えることが怖いんだなと…。
自分が誰かわからなくなった途端、混乱してパニクり、
必死で自分のアイデンティティを探そうとする。
そう言えば、デイヴィッドの弟子(?)のフランシスも、
これと似たような体験をしたという。
〝個の自分〟が何かを赦そうとすること自体攻撃だ、
というデイヴィッドの言葉が思い出された。
これからは、こうやって自分さえをも明け渡すのだな、
と思ったが、兄貴からの声はなにも聞こえてこない。
家に戻り、ネットを見て、スピリチュアルTV主催者
であるテディさんが急逝されたことを知った。
その瞬間、
自分が無くなるというジムでの体験と死が結びつき、
このままスワットでガンガン神に向かって進んだら、
もうすぐ自分も身体が無くなってしまうのでは、
という、形容しがたい恐怖と不安が込み上げてきた。
〝いつ肉体を脱ぐかは、設定で決まっていて、
過去なので、変えられないんですね。〟とか、
〝肉体は脱いでも死はないんですよ。〟とか、
そんなの、
自分には当分起こらないと思っているか、
それは他者に起こる事と思っているからこそ、
言える言葉だったのだな、とこのとき思った。
いかに自分を肉体だと思っているか、
肉体の死を恐れているか、
いざ自分が体を脱ぎ、そこへ神の一歩がやってくると、
いかにそこから全力で逃げようとするかということを
ライトバージョンで体験学習させられた感じだった。
〝このまま、わかりました、と言って進みなさい。〟
〝わたしが、あなたを、操作します。〟
あっ、いつもの兄貴の声が聞こえてきた。
もうこの声だけに従って行くしかないと腹をくくる。
この世界に対する価値を捨てる。
投影することをやめる。
外の物語に囚われるのをやめる。
ただ、自分ではやらない。ていうか、やれない。
攻撃的な考え(=私)が赦しをするなんてあり得ない。
エゴである自己のわたしが、
攻撃をやめることなど不可能である。
なぜなら、
わたし自体が消えて行かねばならないものだから…。
そうやって〝わたし〟と縁切りがはじまった
静かな静かな日曜の夜であった。