↑スカイプ会議がヒマだったので、こんなのを書いた。
後でクレヨンで色を付けた。
ある読者の方から、以下のような質問をいただいた。
『時間や、空間や、罪悪感は、すべて幻想で、
分離も自分の思い込みに過ぎないのだから、
赦す際は、
罪悪感をその都度決断の主体まで戻さずとも、
思考を通さず、気付いたら差し出すだけで、
あとは聖霊がやってくれ、消えて無くなっている、
ということでいいのでしょうか。
実際、デイヴィッドの弟子のフランシスは、
意味づけや判断を聖霊に委ねるだけで、
赦しは起こる、と言っています。』
ここ数日、ブログに僕の今の見え方を綴っているが、
どうして、ここが天国に思えるのだろう、
どうして、会う人全員が聖霊と認識できるのだろう、
と考えてみたとき、それは決断の主体(神の子)が、
エゴではなく、聖霊の心を選択し直したために、
結果、聖霊の見え方に転換が起きたのではないか、
と感じている。(まだまだ危なっかしいが…。)
じゃあ、どうしてそんな転換が起きたのか、と、
分析してみると、赦しの実践の際に、必ず、
決断の主体に戻って、起きていることを解釈し直す、
ということを実行し続けてきたからだ、と分かった。
聖霊の正しい心を選び直すには、何はともあれ、
まずは、決断の主体まで戻る必要がある。
それには忘却のベールを潜らなければならない。
例えば、
混んでいる電車で席が一個だけ開いていたとする。
そのとき、他の人に席を取られる前に、
いち早く自分が座ろうとしたときに上がってくる
攻撃の想いと罪悪感に気づき、赦しを行なう場合、
それを決断の主体まで戻し、本当の解釈をし直すと、
神から離れた、と思いこむ→神への罪悪感→
神から罰せられるという恐れ→自分で防御せねば→
それにはまず安全な場所を自分で確保せねば→攻撃
とまあ、大体元ネタはこんな感じになっている。
ただ、これを直視するのはあまりに強烈なので、
忘却のベールを引いて元ネタを隠蔽し、それを、
電車席取りゲームに置き換えて投影することで、
平静を保っていられる、というわけである。
しかし、このVR世界にいる個の自分には、
父を裏切った、という思い込みから来る罪悪感が
全く自覚されていないので「罪悪感も幻想じゃん。」
と軽くいなしてしまいがちなのだが、おっとどっこい、
決断の主体はこれらの思い込みを強固に信じ、
そこから逃れるためにエゴを選び続けている。
そこを見ずに、ただ聖霊に委ね切ればいい、
とやっても、ベールの向こうのエゴが納得しない。
結論を言えば、
どんな人にも、どんな状況にも当てはまる
ひとつの赦しの方法、なんていうのはなくて、
その人その人の段階によって違うのだと思う。
デイヴィッドのように、
すでに、決断していない決断の主体(笑)にまで
戻ってしまったまま寝起きしていて、
常に聖霊側にジャンクインしてしまっている人なら、
ただ委ね、明け渡しているだけでいいと思うのだが、
まだ、個の自分を使って赦しを行なっている場合は、
原因のレベルへ立ち返るのは重要だと思うのだ。
こういう事からも、コースは自学自習なのだと分かる。
教えながら学び、学びながら教える。
今の僕はこんな感じだが、数日後には兄貴に導かれ、
全く違う展開になるかもしれない。
だから、誰かがずっと教え続けるのはあり得ない。
昨日Aと教えていたことが、明日はA+となる。
しかし、そこにはA++の生徒さんだっているわけで、
A+の教師からA++の生徒さんをみたとき、
「違うんですよ。」と否定してしまうことだって、
無きにしてもあらず、じゃなかった、
無きにしも非ず、であるからだ。
(なんだか、ややこしいな。)
探求のあとに〝わたし〟が気づくのでもない。
それはもう、100%の幻想の削除でしかない。