今日もまた、冷房の効きすぎたオフィスで、
カーディガンを着てお仕事である。
あまり冷房の中ばかりにいてもなあ、と思い、
ケリーに代わって電気代を支払いに、散歩がてら、
会社近くの銀行まで歩くことにした。
カンカン照りの舗道をゆっくりと歩く。
暑いけど気持ちいい。太陽にあたるのも久しぶりだ。
みぞおちの奥にいる静かな自分がハートを察知する。
ビルの狭間に覗く青空を天国の智覚と共に眺めると、
言いようのない安心感がせり上がってきた。
変化することのないもう一人の純粋な自分として、
(これが、決断してない決断の主体、なのか…。)
ハートの中にいることを自覚しながら過ごしていると、
全てがゆったりと聖霊に満たされて過ぎてゆく。
以前、時間が怖いほど早く過ぎる、と言っていたが、
思い出すことも〝いま〟やっていると悟って以降は、
早いとか遅いといった感覚も徐々に消失している。
ここにいるけどここにいない。
反応している自分はいるけど、その自分はいない。
聖霊である兄弟が見せる行為の数々も、
聖霊モード(ハートの海の中)で観れば、
ただ〝愛なる行為〟として感知されてくる。
しかし、こういう見え方の中に在っても、ひとつだけ、
忘れないようにしていることがある。
〝赦し〟である。
ただ、これまでのような、現実の生活の中から出てくる
罪悪感や憎悪を聖霊に委ねる、というスタンスから、
すでに赦されていることを智覚することが赦しだ、と、
完全に、心の中だけの明け渡しになってきている。
こんな感じで、
実相側の空間の方が優勢になってくると、
薄皮一枚のスクリーンに投影されている景色が
色褪せ始め、自分とスクリーンとの間に隙間ができ、
そこへハートの想いが、わわわ、と進入してくる。
実際に、それがどのように見えているかというと、
普段、僕たちは何かを見たり考えたりするとき、
ケータイ、コーヒーカップ、人の顔、あの出来事、と、
視点は必ず、物体や人や事がらの上に、ぐわっと、
点となって集約され、フォーカスされている。
しかし、
本当の自分とスクリーンの間に隙間ができ、
そこへハートの光が入り込んでくると、物体よりも、
むしろ、空間(空気)の方に焦点が合い始める。
物体や人の方は、動いたり、喋ったり、劣化したりと、
絶えず変化しつづけているが、空間(空気)は、
ただ変わらずここにあり、誰かが喧嘩していても、
お金がなくても、大失敗をして落ち込んでいても、
文句を言うわけでもなく、意見するわけでもなく、
ただ、静かにそこに佇んでいる。
そうやって、天国はここにあったという智覚に入ると、
コーヒーカップや、誰々さんや、喧嘩している事、
などにピントが合うのではなく、
静寂の空間の方がメインだと思えてくるのだ。
分析しても仕方のない事ではあるけれど、
僕の平安の原因はここら辺に在るのかもしれない。