香港さんといっしょ! 純粋非二元を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

空気は何もしない

今日もまた、冷房の効きすぎたオフィスで、

カーディガンを着てお仕事である。

あまり冷房の中ばかりにいてもなあ、と思い、

ケリーに代わって電気代を支払いに、散歩がてら、

会社近くの銀行まで歩くことにした。


カンカン照りの舗道をゆっくりと歩く。

暑いけど気持ちいい。太陽にあたるのも久しぶりだ。

みぞおちの奥にいる静かな自分がハートを察知する。

ビルの狭間に覗く青空を天国の智覚と共に眺めると、

言いようのない安心感がせり上がってきた。


変化することのないもう一人の純粋な自分として、

(これが、決断してない決断の主体、なのか…。)

ハートの中にいることを自覚しながら過ごしていると、

全てがゆったりと聖霊に満たされて過ぎてゆく。


以前、時間が怖いほど早く過ぎる、と言っていたが、

思い出すことも〝いま〟やっていると悟って以降は、

早いとか遅いといった感覚も徐々に消失している。


ここにいるけどここにいない。

反応している自分はいるけど、その自分はいない。

聖霊である兄弟が見せる行為の数々も、

聖霊モード(ハートの海の中)で観れば、

ただ〝愛なる行為〟として感知されてくる。


しかし、こういう見え方の中に在っても、ひとつだけ、

忘れないようにしていることがある。

〝赦し〟である。

ただ、これまでのような、現実の生活の中から出てくる

罪悪感や憎悪を聖霊に委ねる、というスタンスから、

すでに赦されていることを智覚することが赦しだ、と、

完全に、心の中だけの明け渡しになってきている。


こんな感じで、

実相側の空間の方が優勢になってくると、

薄皮一枚のスクリーンに投影されている景色が

色褪せ始め、自分とスクリーンとの間に隙間ができ、

そこへハートの想いが、わわわ、と進入してくる。


実際に、それがどのように見えているかというと、

普段、僕たちは何かを見たり考えたりするとき、

ケータイ、コーヒーカップ、人の顔、あの出来事、と、

視点は必ず、物体や人や事がらの上に、ぐわっと、

点となって集約され、フォーカスされている。

しかし、

本当の自分とスクリーンの間に隙間ができ、

そこへハートの光が入り込んでくると、物体よりも、

むしろ、空間(空気)の方に焦点が合い始める。

物体や人の方は、動いたり、喋ったり、劣化したりと、

絶えず変化しつづけているが、空間(空気)は、

ただ変わらずここにあり、誰かが喧嘩していても、

お金がなくても、大失敗をして落ち込んでいても、

文句を言うわけでもなく、意見するわけでもなく、

ただ、静かにそこに佇んでいる。


そうやって、天国はここにあったという智覚に入ると、

コーヒーカップや、誰々さんや、喧嘩している事、

などにピントが合うのではなく、

静寂の空間の方がメインだと思えてくるのだ。


分析しても仕方のない事ではあるけれど、

僕の平安の原因はここら辺に在るのかもしれない。