今回、小池百合子氏が東京都知事に当選した後の、
東京都連のおっさんたちの幼稚な対応は、
見ていて非常に興味深い。
石原慎太郎の「年増の厚化粧女」発言から始まり、
自民党幹部らによる小池氏との写真撮影拒否や、
都連事務所へ挨拶に行くも全員で欠席、そして、
口を歪めてキンキンまくしたてる伸晃氏は、
昔の大奥ものに出てくる意地悪お局さまそのまま。
おっさんたちの意地悪ぶりも、ここまでわかりやすいと
コントみたいで笑けてくる。
でもまあ、小池氏は都民が選んだ代表であり、
小池氏にあんな無礼な態度を取るという事は、
都民を侮辱している、ということになる。
なので、小池氏の体面を傷つければ傷つけるほど、
世論は小池氏有利に働く。
「男と女の間には、深くて暗い川がある。」
と、僕が小学生の頃、母がよく言っていた。
なんで母がこんなことを言うのか、
その頃は全然分からなかった(今でもわからない)が、
この都知事選での幼稚なやり取りを見ていて、
ふと、この母の口癖を思い出した。
こういうエゴが織りなす男女間のバトルの中で、
僕の中にある男性性と女性性がざわめき立つ。
これは、肉体としての他者の間で起こっている
男性エネルギーと女性エネルギーの物語ではなく、
自分の中の男の部分と女の部分が、
ストーリーの上に取り込まれ、
投影されている事に気づく。
いくらスピの大御所が、本当は男も女もないよ、
と言ったところで、知らないうちに、
男の立場で物事を観ていたり、
女性の目線から、男性に敵対心を持ったりしている。
これも、やはり、自分の中の物語であるのだろう。
だが、最近、男でも女でもない、ということではなく、
男であり、女でもある、でも、ふたつではない、
に観方が変わりつつある。
男でも女でもない別のものが在るわけではない。
なので、僕は下記に出てくる〝等化〟という言葉が
ぴったり来て、好きだ。
『男性的なるものは、求め、探り、押し分け、
突き進む。女性的なるものは、それに譲歩し、
次の瞬間には、その下から穏やかに滑りだし、
緊張に満ちた静寂へと相手を導いて行く。
そして、男性的なるものと女性的なるものが
等化されたとき、
決然としていながら優しく、柔軟にして強靭、
曖昧にして明瞭、思考において焦点が集中して
いながら自覚において拡散し、育児に向きながら
指導的でもあり、与えながら受け取る、
という具合に、人はなるであろう。』
(June Singer 『男女両性具有Ⅱ』人文書院より)
まあ今後もおっさん軍団は、
小保方さまのときのように、
何やかやと重箱の隅をつついて、
都知事の座から小池氏(女性性)を引きずりおろそう
とするのだろうが、それも自分の中で起こっている
男性性と女性性のせめぎあいのストーリーであり、
僕はその〝分離の想い〟の元ネタを、テレビの前で、
楽しく、兄貴に委ね、捧げてゆくだけである。