なんか、ここ数日、
日本人観光客の数が増えたなあ、と思っていたら、
今、日本はお盆休みだったんだね。
そういえば、お墓参りとか、もう何年も行ってない。
10月に帰郷する際はちゃんとお参りしよっと。
というわけで、日々の平安は益々深まりつつある。
ただし、お花畑的平安ではなく、なんていうか、
〝ここがそうだ〟という凛とした着地感がある。
それにしても、以前と全く同じ仕事をしているのに、
なんで急に、何も起こらなくなってしまったのだろう。
なんで急に、みんながみんなこんなにも優しいのか。
街を歩いている人から、店の店員さんまで穏やかだ。
数か月前までの、ここでのブログ記事を読み返せば、
その変容ぶりに、ただ驚くばかりだ。
今日、日本の信用金庫の担当者から、
明日は融資の利息支払日ですよ、と電話があった。
利息計算書を送ってくださいとお願いしたら、
もうすでに本社に送ってありますよ、と言う。
本社に問い合わせてみると、確かに管理部長が
受け取ってはいるが、出張で出ずっぱりのため、
今日は間に合わないという。再度銀行に電話をし、
やはり計算書を送ってくれと頼むと、
支店には計算の控えがなく、金額もわかりません、
50万円ほど振り込んどけば足りますよ、と言われた。
ええーっ。50万円ほどって…。
計算書を発行した銀行が金額を知らないなんて…。
そんなはずはないだろう。
これが一年前なら、かっと来て、支店長出せ、となり、
その後、いろいろ赦したりしてたと思うのだが、
何というか、いい加減な対応をしている彼を、
天国のハートそのもの、愛おしい聖霊、
としてひゅんひゅん感じてしまっている。
(SMの快感ってこんな感じなのかな、と思った。)
そして、これが面白いのだが、
計算書の金額は銀行だったらわかるはずだよなあ、
彼でダメなら、支店長に直接話すしかないかなあ、
〝50万円ほど〟なんて返答、銀行ではありえない、
という自動的な思考はちゃんと湧いてくる。
また実際に、そういう思いを相手に伝えたりもする。
それでも、ハートの中でひゅんひゅんしている。
結局、50万円ほどではこちらも困るので、
もう一度金額を確認してもらえませんか、と言って
電話を切ったが、あくる朝、出社してみると、
ちゃんと金額を計算したメールが入っていた。
元資料がなかったというのは本当みたいで、
再度自分で計算し直した、ということだった。
ここがそのまま実相だった、という自覚があって以降、
外のものを赦してゆくというスタンスから、
天国を自覚していること自体が赦しになる、
というスタンスに移行しつつある。
赦しも、一つの固定されたやり方があるわけではなく、
段階段階によって変わってくるのだろう、
と実感している。
上記の〝利息計算事件〟を書いていて思ったのだが、
ただ、起きていることに同化しなくなっただけで、
映像自体は以前と変わらず、
いろいろなことが起きているのかもしれない。
そして、僕はただ、聖霊モードでいることにする。
ただただ、気づいている、に留まる。