連日、どのワイドショーもオリンピック一色で、
ちょっとうんざり気味の今日この頃。
よくみれば、
同じ映像ばかりを一日中使いまわし、
普段は現場で事件を伝えるレポーターも、
この期間に乗じて夏休みを取ったりしている。
まあ、選手の人たちはみんな、この日のために、
血の汗を流して来てるわけだから、この時くらいは、
大いにスポットライトをあててもらえばいい、
と思う反面、ドロドロ愛憎事件大好きな僕としては、
ちょっと、いや、だいぶ物足りない。
と、思っていたらやってくれました。
高畑淳子の息子、高畑裕太のホテル性的暴行事件!
歯ブラシを持ってきたホテル従業員(40代)を見て、
ムラムラが抑えきれなかったって…。
笑い事では済まされない事件だが、
それでもやっぱ、ワイドショーはこうでなくっちゃ!
↑百貨店で売っていた風水盤。3万円くらい。
とまあ、やっと終わってくれたオリンピックであるが、
スポーツって、エゴとして観るか聖霊として観るかで、
全く違うものとして知覚されるんだな、と実感した。
エゴの目線で見れば、オリンピックは、
どの肉体が最も優れているか、
どの国がメダルを最も多く獲得するか、
まさに、ルールを決めて行なわれるケンカ、
攻撃と闘いの祭典となる。
しかし、聖霊の目線から見れば、
スポーツは肉体を使って為されるハートの表現であり、
オリンピックは愛の祭典、ということになる。
ただ、そうはいっても、
ひとたび福原愛ちゃんや内村航平君が出てくれば、
いいぞニッポン!頑張れニッポン!負けるなニッポン!
と、日本人としての自我がむくむくと顔を出す。
また、ミスが続いたりすると「何やってるんだよ!」
と今度は怒りに転じたりする。
そんなオリンピックを見ていて思ったのが、
「エゴって過去なんだ。」ということである。
日本選手頑張れ!中国勢を打ちのめせ!
という判断を下す思いはどこからやってくるのか。
ふっと、何の根拠もなく湧き上がってくる想いの
その基底を成しているのは何なのか。
過去である。
過去が作り上げる〝ふっと上がってくるもの〟は、
エゴの思いでもある。
つまり、過去はエゴそのものなのだ。
エゴが過去なら、聖霊は〝いま〟である。
そういえば、今に在るあの平和な感覚は、
聖霊そのものだった。
今だけを見れば、そこではオリンピック選手たちが、
ただ、パフォーマンスをしているだけに見える。
戦いもなければ、勝ち負けもない。
もちろん、国家もない。
まあ、そんなスタンスでオリンピックを見て、
どこがおもしろいんだ、と言われればそれまでだが…。
こうやって、天国は今に在ったと解かりだすと、
次第に幻想ゲームの数々が楽しいと思えなくなる。
在る自体がエクスタシー…。
(って、高畑の息子はどうなったんや!←by 読者)