香港さんといっしょ! 純粋非二元と奇跡講座を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ひとつのこと


↑会社近くのヒスイ市場。交渉して値段を決める。
今年の香港の夏は雨が多く、あんまり暑くない。

夜もエアコンなしで過ごせるし、網戸にして寝ると、

寒くて寝冷えをしてしまいそうだ。


昨夜3時ごろ、肌寒さに目覚ざめた。

しばらく、ベッドの上であぐらをかきながら、

寝室の窓に映る森の木々をぼうっと眺めていた。

と、突然、大雨が降りだした。


ふと、メールを送った友人から返事がないな、と思う。

あんなことを書いたからかなあ…。

あのとき、、もっと別の書き方してれば違ってたかな。

例えば…なんちゃらかんちゃらで…。なあんて。


雨の深夜、

そうやって〝ふと湧いてくるもの〟を追い続けていた。

過去って、エゴそのものなんだな、と思う。

〝あのことは残念だけど本当に起こったんですよ。〟

と、エゴがささやき、僕に罪悪感や憎悪を抱かせる。


今に戻る。

雨の音が回復した。

網戸越しに、水と土の匂いが漂ってきた。

薄暗い部屋。背中に感じる痒さ。

ぞわぞわと木々が揺れるさまを見つめながら、

じっと、暗闇に佇み続ける。


ああ、聖霊は、今の中にいるんだな、と感じた。

自分という存在が排除された、

今、ここに見えているだけの景色は平和そのものだ。

空気や、ここに在るものは、何もしないし、考えない。

次の一手とかも、ない。

木々がざわざわ揺れている…以上。

雨が降ってきた…ザッツオール。

背中が痒い…はい、おわり。


ただ、起こっては消えてゆく、それだけなのだ。


このふっとやってくる想いを、聖霊モードで観察する。

すると、さっきまでびゅんびゅん感じ続けていた

過去の出来事に対する自動反応や、

もしあの人がああだったら、という、

妄想から発展した攻撃のストーリーから、

さっと、今の中の聖霊モードに切り替わった途端、

このふっと湧き上がってくるもの自体が訂正され、

ここがそのまま天国だったという確証と共に、

聖霊の智覚が立ち上る。

再度、ベッドに身を横たえる。

天井に乱れ飛ぶ粒子をぼーっと眺めていると、

おおきな〝閃き〟が入ってきた。


聖霊を選ぶことと、聖霊に委ね切ることは同じである。

また、

聖霊に委ね切ることと、今に在ることとは同じである。

そして、

今に在ることと、ここがこのまま天国である、

と智覚していることとは全く同一である。

つまり、

決断の主体に戻って聖霊を選択し続けることも、

自分の考えや行動すべてを聖霊に委ね切ることも、

今に在り、過去の意味づけを一切放棄してゆくことも、

神の子の自分がハートの愛そのものであったことを、

ただ智覚してここにいることも、

結局、全ては〝ひとつのこと〟でしかなかった。

議論なんかする必要もない。

だから、どれかひとつを実践していても、

それは〝神は実在する〟(God is!)なのだ。


電流を流されたように、体がぴくぴくと痙攣しだした。


一応カタチの上では普通にやるべきことをやって、とか、

カタチのレベルでは、お医者さんに行って、とか、

出てきているものを消えゆく姿で見て、とか、

そんな怖々やるような実践、僕はもういい。

(僕は←ここ、強調!)


コップをコップとして、椅子を椅子として扱うように、

エゴはエゴとして、

実在しないものは実在しないものとして、

凛として、普通に相(あい)対すればいい。

ないものはないのだ。そのように観るだけ。


そう聞けば、即座にエゴは疑問を返す。

でも、無いものを無いものとして扱えって言ったって、

幻想の世界では、様々なことが起こるじゃないか。

例えば、

人から理不尽なことを言われたときはどう返すの?

何かで苦情を言わなければならない時は?

お金を稼ぐためにやりたくないことをやるときは?

家族の問題を具体的にどう解決すれば?

病気で苦しいのに、それをないものとして観るなんて…。


ノーッ!

騙されている! ただ赦すと決めればいいんだ。

(赦そうとするのではない。赦すと決める。←重要!)

嫌な人にバーカと言った自分を訂正する必要もない。

ただ、あの人にバーカと言い返した、終わり。

家族と大喧嘩しました、以上。

お腹痛い、クスリ飲みました。終了!


兄貴はそれらのエゴの出来事を使って、

僕たちをおうちへ帰そうとしている。


夢を夢として見破る意欲。

それだけ。