連日、香港はそぼ降る雨が続いている。
ここ数日、目まいと耳鳴りが激しい。
今日も、通勤電車で立っていられないくらい、
グルグルと景色が回り、ちょっとヤバかった。
じんましんも出たりして、ちょっとおかしい。
夏バテかな? それとも、波動上昇?
まあ、10月の日本一時帰国の稟議も通ったし、
あとは、ダイエットだ!ゴーッ!
今週は、
今にいて聖霊に委ねる、とか、大放出で明け渡す、
というより、もう、24時間、あらゆるシーンで
聖霊を思い出しては眼前の景色を赦すのみ、
という感じですごした。
この現実世界に映し出されてくるもの、
この空間に見えている物、起こっている事、
何か言ってくる相手に対する反応を、
自分の心の中のものと捉え、聖霊とともに赦してゆく。
ベールの向こうに隠蔽した筈の〝分離の想い〟は、
この空間に、むき出しになって顕われていた、
と、真に気づいた時、
「なあんだ、現われている現実を赦せば、
見えない心の中のものも癒されるんじゃん。」
ということが理解できた。
赦し始めたばかりの、まだまだ分離していた数年前、
信じない、使わない、採用しない、と断固三兄弟で
赦しながらも、
〝この人がやっている、この事、を赦すのだ。〟
〝相手を赦せば自分も赦されるから赦すのだ。〟
というふうに〝外界に起こっているものを赦す〟
という感覚がまだまだあった。
それでも、ようやく最近、
自分の目の前で展開されている出来事や人間関係、
ふっと湧き上がってくる怒りや憎しみの感情は、
自分の心の中にあるものを見せられているんだ、と、
はっきり自覚できるようになり、それ以後は、
「ああ、これも俺の心の中。あの人も俺の心の中。」
というふうに、
自分の中の赦しとして兄貴に明け渡すようになった。
また、現実の出来事にのめりこんで行っているときに、
〝あっ、赦そう〟と気づくのさえ自分がやっていない。
忘却のベールの向うから〝ふっ〟とやってきた想いが、
僕に赦しを〝ふっと〟思い出させているだけだ。
なので、赦そうという思いが〝ふっと〟上がってきた
ということは、ある意味、決断の主体が、
エゴではなく、聖霊を選んだ証明だ、ともいえる。
逆に、
決断の主体が聖霊を選んでいるかどうかを知るには、
個の自分が聖霊を思い出し、委ねようとする思いが、
〝ふっ〟と上がってきているかどうかで判断できる。
隠蔽されていると思い込んでいる想いは、
結局、全てこの幻想世界にカタチとなって
顕われてきていたのだ。
なので、兄貴は、目に見える現実を赦させることで、
心の中の原因を取り消そうとしている。
絶対に許せないあの人も、残念なあの出来事も、
全部、自分の心の中…。
ということは、父が待つ故郷へ永遠に戻るには、
目の前の兄弟を赦すしかない。
だって、目の前の兄弟は自分の心なのだから…。
・見ている空間が自分の心の中だと自覚すること。
・自分を全面放棄し、ただ聖霊兄貴に委ね切ること。
・決断の主体でいること。
・今に在ること。
・聖霊兄貴と一緒に、目の前の兄弟を赦していくこと。
・全ての兄弟を完璧な神の子として観ること。
・ただ愛していること。
・聖霊がこの幻想世界に愛を延長してくること。
・ここがこのまますでに天国だったと智っていること。
これらは、みんな、たった一つの〝God is !〟だった。
このうちのどれかひとつでも真に理解されていれば、
全部を知っているのと同じことになる。
それがわかって、ほんとうにうれしい。