ゲイリーの3冊目の翻訳の文章が、
なあんかしっくりこないなあ、と思ってよく見てみたら、
『覚醒へのレッスン』と同じ翻訳者だった。
ああ、どうりで…。なるほどね。
聖霊、霊、霊体、実体、仕掛け、贖罪、などに、
ホーリースピリット、スピリット、スピリッツ、リアリティ、
トリック、アトーンメント、と、いちいちルビを振るので、
読み辛くて仕方がない。
普通こういう場合、翻訳者は、漢字かカタカナか、
どちらかに表記を統一するのだが、
多分、翻訳者本人はカタカナ表記にしたかったのに、
編集者に反対され、妥協点としてルビを振る、という
ことになったのだろう。(憶測ではあるが…。)
それでも、今回は監修者がいないせいか(笑)、
『覚醒へのレッスン』の翻訳よりかはよくなっている。
ルビの問題以外、普通に楽しく読める。
『覚醒への…』は、誤字脱字も多かったが、
最後の50ページは、もう日本語としての文章の体裁
すら成していなかった。
『覚醒への…』については、ずっと以前、
翻訳者を変えて再出版しろ、という人たちに、
「なんでみんな赦さないのだろう。」みたいな、
なんとも偉そうな記事を書いたことがあるが、
今の自分が、心の中を赦した結果、
もし他の人の翻訳で再版されるなら、
まあ、それはそれでよくってよ、みたいな感じである。
あ、あ、あのときは、あんなことを言って…。
みなさんっ。す、す、すんませーん!
(おーいっ!出てきて土下座せーい!←by 読者)
↑ベトナム労働党ポスター。中国のより顔が優しい。
(ハノイタワー前で撮影)
というわけで、
このように、赦しの珍道中真っただ中な僕であるが、
現実に起こってくる出来事を赦してゆくにつれ、
「自分はいま、来世の心を赦しているのだな。」
という想いが日に日に強くなりつつある。
前世で他者(外界)だったものが、
今世では自己(心の中)になり、
今世で自己(心の中)だったものが、
来世では他者(外界)になる。
つまり、今世で自分が他者にしたことが、来世では、
そのまま自分がされる側になる、今世で人を殴れば、
来世で殴り返される、というわけだ。
転生を繰り返すたび、外側の世界と内側の世界が、
交互に反転を繰り返しているのだ。
なので、今世で他者がやったことを赦すということは、
来世で自分がやるだろうことを赦す、要するに、
来世の自分を赦している、ということになる。
そして、それは、来世を取り消している、ということを
意味しており、全ての設定が取り消されたとき、
転生も不要となる。
兄弟たちが見せてくれるあらゆるパフォーマンスが、
それは分離した誰かがやっているのではなく、
自分の心の中のものだと捉えられてくると、
他者を赦せば自分が赦される、という言葉の真髄が
リアルに感じられ、得心(とくしん)して赦せる。
ということは、
この〝ゲイリー三冊目ルビ振り読み辛い事件〟も、
今赦さなければ、来世で、今度は自分が、
これに相当したことを引き起こす、ということ?
はいっ!赦しますっ!
もうええわ。