香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

幸せな学習者


↑月曜日の昼間っからワイン。極楽すぎる!

今週月曜日、休日出張の代休を取って休んだ。

最近では、ブラック企業の過重労働が問題視され、

休みが取り易くなっているので、本当に有難い。

僕たちが新入社員のころは、代休取ります、

なんて言ったら、大声で怒鳴られていた。


だが、この日の朝8時に、

コンババ管理部長からの電話で起こされ、

取ろうとしたら切れちゃった。しかし、その後に、

「お休みだったんですね。失礼しました。

 別に急用じゃないので折り返さなくて結構です。」

とLINEが入ってきて、その文章を見た瞬間、

優しい気持ちが込み上げ、そういう彼の気遣いに、

感謝の念が湧き起こった。

もう彼をコンババと呼ぶのはやめると心に誓った。


午後、ジムで、筋トレとヴィ瞑想をした。

筋トレの後、蒸気サウナでひとり、僕が開発した、

〝メタボ撲滅ぐるぐる体操〟をしていると、

胸の筋肉が、乙女ののりちゃんの胸くらいある、

腹筋ボコボコマッチョ男がサウナに入ってきた。

彼は、ぐるぐる体操をしている僕を見ると、

「さっき、階下で座禅みたいなのをしてただろう。

 あれ何?ヨガ?」と訊いてきたので、

自分の無意識を内観する瞑想なんだ、と答えると、

今やってるぐるぐる運動もそうなのか、と言うので、

これは腹の脂肪撲滅のためにやってる、と答えたら、

ふうん、変わってるなと言って出て行ってしまった。


フン! なんだよ!

そりゃあアンタはナイスバディだよ。


でもあれだけの身体を維持するのには、

きっと食事やら、トレーニングやら、サプリやら、

毎日、血の滲むような努力をしているのだろうな。

兄貴にお願いしたら、何にもしなくても、

あんな体になれるかな?(←バカモノ! by 兄貴)


↑平日の昼間はジムもガラガラ。
ジムを出て、ショッピングモールをぶらつく。

途中、セルフ式のカフェバーを見つけ、入った。

そこで白ワインを買い、小説を書いて過ごした。


そうやって、平安の中で一日を過ごしていると、

ふと、不安から来るありもしない妄想が立ち上がる。

もし、ここがイスラム国だったら…?

もし、いま地震で建物が崩壊してきたら…?

もし、自分が北朝鮮で暮らしていたら…?

こんな風に平安でいられるだろうか、

聖霊に繋がっていられるだろうか、と…。

どうしても、いま在るままの平安を信頼できない。


赦しに差はない、大小はない、と言うけれど、

本当にそうなのか、と思ってしまう。


重病や、お金や、人間関係で苦しんでいる人、

果ては、戦火の中を逃げ回っている人の赦しと、

健康で、お金もあり、家族にも恵まれ、

「今日は床を這っていた二匹の蟻を赦しました。」

みたいな、何とも優雅な赦しをしている人とでは、

どう見ても、前者の方が過酷だ、と思ってしまう。


例えば、明日のメシも食えない究極の状況の時に、

「それも幻想だよ。赦すだけだよ!」

と、平安な人から諭されたって納得できないし、

「じゃあ、お前、やってみろ!」と反発したくなるが、

今日電車で足を踏まれてムカついたのを赦せ、

と言われれば、そうだね、と素直に頷ける。


今では、半ばネタみたいになっている僕の、

専業主婦になりたい願望だって、

会社で社員をリストラしてボコられるのを赦すより、

今日スーパーで買った豚肉が腐ってました、

を赦す方が絶対にラクだ、と思っているからだ。


でも、そうではない、と最近腑に落ちてきた。

何を以って最大の赦しとするかは人それぞれであり、

逆に言えば、それぞれに今差し出されている赦しが、

その人にとってのマックスの赦しなのだ。


なので、

鬼のように意地悪な姑を愛に見れる主婦が、

地面を這う蟻だけはどうしても赦せない(笑)、

というようなことだってあり得るのだと解かり、

赦しに差は無いとはこういうことなんだ、

と、納得できたのである。



そうこうしているうち、

珍しく言葉でメッセージを受け取った。


〝馬鹿を言うな。

 父や聖霊が神の子である〝おまえ〟を、

 罪人として扱う筈がないではないか。

 神の子に苦しい思いなどさせる訳がない。

 故に、試練だと感じられるものは、

 聖霊からのものではない。

 精霊は、いつも安全に、神の子をかくまいながら

 すでにある天国の知覚へといざなう。〟


ちょっと、泣いた。


試練など探しに行く必要もないのだ。

平安であることが当たり前なのだ。平安でいいのだ。

なぜなら、自分は聖なる神の子であるからだ。


その後、家に帰って何気なく『奇跡講座』を開けば、

いきなり次のような言葉に出会った。


〝幸せな学習者は、

 学びについて罪悪感を感じることができない。

 このことは学びにとって非常に重要なので、

 決して忘れてはならない。〟


そうだ、幸せな学習者でいいのだ、と、

思わず小躍りした、月曜日の幸せな午後であった。