〝打小人〟のエリアを通る。
〝小人〟とは自分に災いをもたらす人のことで、
〝打〟は打つ、つまり不幸をもたらす人を打つ、
要するに香港版〝呪いの藁人形〟を意味する。
このエリアでは、
本人に代わって小人を打ってくれるおばさん達が、
椅子に腰かけ、お客を待っている。
普通、人型をした紙に、
依頼者が消えてほしい人の名前を書き、
それをおばさんが呪文を唱えながら、
脚でぐちゃぐちゃになるまで叩く。
その後、燃やす。
それから龍王に対し、様々な儀式を行なうそうだが、
これは香港特有の風習で、100年超の歴史がある。
ある日、僕がこのエリアの傍を通った時、依頼者が、
鞄から誰かの名刺を出すのを見て、ぞっとした。
こんなエリアが街のど真ん中にあるなんて…。
しかしまた、こういった風習を、道徳上どうのと、
安易に禁止しない香港が、ぼくは大好き!
エゴの化けの皮を剥がすのが楽しくてしようがない。
ちょっとした心の隙間に入り込んでくる意地悪な想い、
相手の言動に対して反射的にでてくるエゴの反応、
ちょっと気が重くなるような会合や用事、など、
正体見たり、と、次から次へと兄貴に渡し続ける。
こうして、相手が何もしていないことを認め始めると、
世界が消えてゆくような感覚に襲われる。
そんなことばかり一日中やっていると、
やがて、あらゆる人や物や事柄が聖霊に変わり始める。
それは、本当に変わるのだ。
ふぁちゃんが〝聖なるふぁちゃん〟になり、
店員さんが〝聖なる店員さん〟になり、
100ドル紙幣が〝聖なる100ドル紙幣〟となり、
電車で足踏まれたが〝聖なる足踏まれた事件〟
となる。
もちろん、見えている景色は以前と同じだし、
ふぁちゃんも以前と同じふぁちゃんなのだが、
なんていうか、違うのだ。
有り難いというか、うれしいというか、
もう、あいてが聖霊となって動いている感じ。
全部が聖霊なので、相手が何をしても、
〝はい〟と言って受け入れてしまう。
もちろん、これは違うかな、と思えばはっきり言うが、
それはもはや攻撃ではない。
たとえ、誰かからとんでもないことをされたとしても、
それは誰々さんがやったことではなく、
ましてや、自分が投影していること、でもさらさらなく、
ただ、聖霊がみせていること、というスタンスとなる。
これまでは、聖霊兄貴に導かれながら、
この夢の幻想世界を共に歩んでゆく、
みたいな感じだったが、ある日突然、
世界がまるごと、聖霊そのものになっちゃった!
なんか、日替わりで見え方が変わってゆく。
ジェットコースターに乗っているみたいで、
ちょっと、スリル満点な僕のまいにちである。