香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

メモリー・ハッカー


↑生まれてからの記憶を鮮明に覚えている少年
 何年何月何日に何をしたかを全て思い出せるという


大いなる赦しの日を終えた直後の日曜日、

外出もせず、冷房の効いたリビングで一日中、

ワインやコーヒーを飲みながらお籠りして過ごした。

そのとき、たまたま見ていたBS1で、

『メモリーハッカー』という番組をやっていた。

記憶に関する番組で、とても興味深い内容だった。


これまで記憶というのは、脳内にファイルされ、

永遠に不変のものとして存在すると考えられていた。

これは記憶の固定化と呼ばれ、

変更を加えることはできず、ひとつの思い出として、

何度思い出しても同じ記憶として存在し続ける。


しかし、最近の研究では、

ひとつの記憶を何度も思い出すたびに、

その記憶の内容が上書きされ、変化していっている、

というのだ。

記憶というのは、

脳の図書館に本をしまうようなものではなく、

コンピューターでファイルを呼び出し、

常に修正を加えてゆくようなものなのだ、と…。


記憶を思い出す度、脳内で新たなシナプスが作られ、

再固定化されて、脳の長期記憶部位に戻される。

思い出すという単純な行為によって、

記憶は変わる可能性があるのだ。

映画『エターナル・サンシャイン』も、

この研究論文から生まれたのだという。


この番組を見て、そういえば、と思いだした。

僕が小さいときに父親が乗っていた車は、

青いセドリックだったと鮮明に覚えているのに、

当時の写真を見ると、実際は白いセドリックだった。


また、僕が小学1年生の頃、

父方の祖父の田舎である四国のある村に行った、

という記憶をはっきり覚えており、

そこは、車で何時間も行くような山奥にある村で、

毎日野良仕事をしているにもかかわらず、

なぜか、全員肌の色が透き通るように白く、

大きなお人形さんのようなパッチリした目をしていて、

物腰に共通した気品と穏やかさが漂っていた。

僕が行ったときは、ちょうどお盆の頃で、

神主さんのような服装をした人たちが、

列を成して歩いていたのを覚えている。

僕はその後、何度もその時のことを思い出しては、

もう一度行きたいなあ、と思っていて、

大学生になった頃、父にその村のことを訊いてみたら

父はそんな場所へ連れて行ったことはない、と言う。

確かに祖父の実家は四国だが、もう何十年も、

祖父本人ですら帰郷していない、ということだった。

そこで当時まだ健在だった祖父にも訊いてみたが、

そんな村のことなど知らない、と言われた。


だが、今回この番組を見て、

ある記憶を何度も思い出すうち、上記のような記憶に

書き換えられていた可能性が出てきた。

ここでキーワードになるのは、思い出すという行為だ。

僕たちが〝ふっ〟と何かを思い出すとき、

実際には、その記憶を浄化させる為に、

思い出しているのではないか、と直感したのだ。


過去に起きたと思っている憎悪の記憶や、

消し去りたいようなおぞましい出来事、

これらの忌わしい記憶が〝ふっ〟と思い出された時、

二度と変えることのできない過去を思い出して

ひいひい恥辱にさいなまれているのではなく、

実際には、それらの記憶を思い出すことによって、

記憶を修正していっているのだ、と言える。


だから、嫌悪すべき記憶が浮上してきたとき、

あっ、いけないいけない、と封じこめるのではなく、

一度ちゃんと思い出してやり、再固定化してやる。


それを奇跡講座的に言えば、

一度ちゃんと認識して赦し、浄化させることで、

設定ファイルを消去させる、ということなのだろう。


記憶が変わるとすれば、過去も変わる。

すなわち、固定された過去なんてないということだ。

そう思えば、過去にとらわれて苦しむ、

なんて、ナンセンス極まりない、と分かってくる。


また、記憶が塗り替えられているという事実は、

記憶によってのみ支えられている〝わたし〟

という存在自体を崩壊させてしまう。


〝わたし〟が過去に頼れなくなると、

残っているのは〝いまのわたし〟しかない。

そこに、主体のわたしに戻る接点がある。


赦しは永遠の今の中で為されている。