香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神の世界



友人を訪ね、四国某所へやってきた。

普段、国内線は、羽田からJALかANAなのだが、

到着時間の都合で初めてJet Starに乗った。

これがまた赦しどころ満載の航空会社であった。


成田に着くと、

新しいローファーで靴擦れになった脚を引きずり、

バス乗り場までひたすら歩き、そこからバスに乗って

やっと第三ターミナルに着いたと思ったら、

カウンターでものすごい列に並ばされ、

その後、手荷物検査の長い列に並んだあと、

ゲートでは重量チェック(7kgまで)があり、

そこで、12.5kgだった僕は、

超過料金3千円を払わされる羽目になった。

しかし、後ろにいたAKB系の女の子も、

僕と同じ重量オーバーだったにも関わらず、

「次は気を付けてね。」のおっさんの一言で、

超過料金なしで通っていた。

席に着くと、自分の隣が空席だったので、

なんか嫌な予感がしていたら、

さっきの女の子がやってきて僕の隣に座った。


だが、それでも、東京での語り合いで、

神から見ればすべての兄弟は無罪である、

ということが腑に落ちて入っていたからか、

何が起きても、誰であっても、

そこには無辜しかない、この人は無罪である、と、

すんなり兄弟を開放している自分がいた。

四国にいた2泊3日の間は、友人たちと、

おおいに食べ、大いに飲み、大いに語り合った。

名所旧跡なんかどうでもいい、という感じで、

ずーっと喋りっぱなしだった。


兄弟たちとの語らいの中で、

自分がいかに〝弱者〟として見られたくないか、

〝弱者〟だと他人に気づかれることを恐れていたか、

ということに気づかされた。

僕は以前から、大勢の人の前で何か言われたり、

注意されたり、叱られたりすることに対して、

異常なほどの恐怖と嫌悪感を持っていた。


例えば、社員全員が集まる朝の朝礼で、

上司から、何やってんだよ、と、

ちょっと強い語気で注意されたとする。

朝礼が終わった後も、なんだか、みんなから、

同情的な目で見られているような気がして、

とても憎々しい、卑屈な気持ちに陥るのだ。

そんなとき、ある同僚がすれ違いざま

「気の毒だったね。」という表情で、無言のまま、

僕の肩をポンポンと叩いていこうものなら、

もうたまらない。今度は、恐怖が怒りに変わる。

以前までの僕は、

恥をかかされた、プライドを傷つけられた、という、

上司に対する怒りと向き合うのが常だったが、

今回の語り合いで、真に僕が怒り、憎んでいたのは、

僕に恥をかかせた上司の方ではなく、

僕に同情し、僕を弱者として扱うことで、

自らの身の安全を確認しようとする、

同僚達に対してだった、ということに気づかされた。


そのことが分かり、自分の心の中にある罪悪感、

天国から離れることを選択したと思い込んだ自分への

咎めの気持ちや、嫌悪やいらだちを見て行った。

そのとき、ああ、そうだったのか、と気づきが起きた。

心の中の選択だけが問題だったんだ、と悟ったのだ。

なので、彼らを解放するのも自分だし、兄弟たちを、

神の子として無辜で無罪な存在とできるのも、

神と同じ機能を持った自分だけなのだ。


あなたは無罪だ、故に自分も無罪だ、と宣言し、

何もしていない彼らを開放しながら聖霊に委ねた。

その後、四国に2泊して大阪の実家に戻った。


今回の僕のアメージング・ジャーニーは、

殺人者も、いじめた者も、虐待した母親も、

均一に愛しい兄弟であり、無罪である、ということが、

頭ではなく、心から理解でき、納得できた旅だった。

そして、常にどんな時も、神が寄り添ってくれている、

ということが確信できた旅でもあった。


自分がやることは、ただひとつ、

どんなに世間一般的には罪深いと思えるような

兄弟であっても、彼の無罪性を観て、

それを開放させてやることだけだ。

そうすることで、神の子の力が自分に戻ってくる。


その兄弟が今後どういうプロセスによって、

学び、気づいてゆくかは、自分の仕事ではない。

それは聖霊兄貴に任せておけばいいのである。


最後に、

今回の旅でお世話になった多くの兄弟たち、

本当に、本当に、お世話になりました。

ありがとうございました。