香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

懲役 0.00001秒 執行猶予 150億年



ここ数週間、

週末は外出もせず、昼からワインを飲み、

フィギュアスケートのグランプリシリーズを見ながら、

家でまったりと過ごしている。


そんな土曜日の夜、鶏胸肉の夕食をとったあと、

なぜか、すんごく眠くなり、ベッドに横になった。

夢うつつの中、今ではもう覚えていないのだが、

自分の肉体のそばに誰かがいて、

僕の身体から何かを吸い上げてゆくような、

なにか、脳内の設定をいじられているような、

奇妙な感覚を味わっていた。

その間、僕は僕で、これ、全部持って行ってください、

と、傍にいる、光のような存在に訴えている。

その存在が何なのか、

何を持って行ってもらおうとしていたのか、

そのときは、全て了解済みだったのだが、

目覚めたと同時に思い出せなくなってしまった。

まあ、なんだか、とっても不思議な体験であった。


↑会社の人と寿司刺身の食べ放題へ。
 3300円で本当に食べ放題だった。
 ネタも新鮮で、日本酒、ビールも飲み放題!


『聖性とは、内なる無垢性を見ているが故に、

 自分が目を向けるすべての物の内に

 自分の無垢性が見え、あらゆるところに、

 自分自身の救済が見えるということである。』

(『奇跡講座テキスト編』 第31章 最後の心眼より)


いま、上記の言葉を噛みしめている。

そこで、今週は、兄弟に委ね切る、でやってみた。

兄弟を神の化身として信頼し、委ね切るのだ。

自分では敢えて何もせず、委ね切ることで、

いろいろモノ申したい自分の想いを見つめ、

外に映るあらゆることを無罪として開放してゆく。


仕事中、

自分が許可していない支払いを見つけた、

この攻撃メールに対して、どう返してやろうか、

あの人がこんなこと言った、あんなことやった、など、

まあ、さすがに、こういうストーリーを見て、

その中へとのめり込んでいくことはなくなったが、

一瞬、ぴぴっと出てくる、反応しようとする欲望を、

神の子である兄弟側に委ね切ってみるのだ。

だって、

兄弟がやっているように見えることに対しての

自分の反応や意味づけが正しいかどうかなんて、

誰にも分らないのだし…。

例えば、誰かに何かを言われて、どんな時でも、

心の中だけで赦して反応せずに黙っているのが、

正しい心の状態か、と言えば、そうではない。

また、ぱぱっと言い返えばいいのか、というと、

そうでもない。

どの反応が正しいかなんて、自分になど分からない。

その時で、ふっと出てきたものが兄貴の意志だと、

信頼して委ねられるかどうか、である。

そうやって、

相手側に委ね切ることで兄弟を開放する。

こんなとき、僕達は本当に、

自分の中の〝隠された心〟が信じているものだけを

観ているのだな、とつくづく思う。

そしてこの〝隠された〟というのがカナメで、

表面の自分が、顕在意識でいくら金が欲しい、

と思ってもそうならないのは、この隠された心が

全く反対のことを望んでいるからに他ならない。


自己の罪悪感を全部、閉ざされた心の中に隠し、

自分が罪を欲しているという自覚もなく、

罰せられたいと望んでいることにも気づかず、

エゴを選択したことが思い出されることもない。

要するに、表層意識の自分は、

隠された部分で何をたくらんでいるか、

なんにもわかっていないのだ。


なので、自我のファイアーウォールを突破し、

決断の主体まで戻って神を選択し直すには、

先ずこの〝隠された心〟を開放する必要がある。

そして、開放するとは〝観る〟ということであり、

観て、それは間違いだった、と確認することなのだ。

そうして、決断の主体まで持ち込まれた間違いは、

兄貴によって訂正され、取り消される。


じゃあ、どうやって観るのか、ということであるが、

奇跡講座によれば、

自分が肉眼で見ているこの世界こそが、

〝隠された心〟の投影の場となっているので、

今の自分の身に起こっていることを直視することが、

そのまま隠された心の中を観ることになる。

端的に言えば、

他者は自分の心が造り出した〝隠蔽物〟なのだ。

心の中で密かに信じている神と神の子との関係が、

兄弟と自分との関係として世界に投影されている。

すなわち、心の中に隠したと思っていた罪悪感は、

何も隠されてなんかいなかった、ということなのだ。


なので、他者との葛藤を通じて浮上してくる感情を、

ちゃんと観て、それは全部間違いで、

それ故に兄弟も自分も無罪であった、と、

エゴから兄弟たちを開放してゆく。

外で起きていること(自己を投影した他者)を、

自分の心の中で起きている事と見て受け入れ、

自分の心の中を赦してゆくのだ。


こうして、

隠ぺいされた自己の心の投影の場として、

外界を観るようになると、

次第に自分の心の中に住んでいるような感覚になり、

選択次第でどうにでもなる世界のように思えてくる。

同時に、自分の周囲に顕れる人びとがとても愛おしく、

大切なもののように見えてくる。

ちょうど、前回、

管理所の人に文句を言った時のように、

たとえ、ちょっとした言い合いをしたとしても、

あらゆる景色を救いとして見ている。

外的に何をやったか、は関係ないのだ。