香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

とりたての輝き



先週はずっと、風邪気味で体調が悪かった。

喉が痛く、身体がだるい。頭痛がして微熱もある。

それなのに、夜、小説のプロットを練りながら、

ジントニックを二杯も飲んでしまったものだから、

結果、あくる朝起きてみると、

身体が重く、頭痛がして、死ぬほど辛かった。

普通なら、会社を休んでしまうところだが、

その日は朝から、上海の法廷で、

以前解雇された総経理の労働争議の裁判があり、

弁護士から要請された補充資料を、

至急準備しなければならなかったため、

どうしても休めなかった。

根性で出勤し、資料を提出し、午後から早退した。

家の近くに、

日本の医療機関がやっているクリニックがあったので

そこで診てもらい、薬をもらって帰ってきた。

ここはまだ開業して2か月らしく、

日本語で診察がうけられ、先生もとても親切だった。

気になる診察料は1万5千円くらい。

香港の一般的なお医者さんが3千円くらいだから、

日本語で診察、というだけでかなりな割高となる。

僕も、海外傷害保険に加入していなかったら、

多分、行かなかっただろう。

それでも、僕が住んでいるタイクーというエリアは、

アピタやイオン、旭屋書店、シャトレーゼ、エーワン、

と、あらゆる日本の店舗が進出している地域なので、

日本人の家族もたくさん住んでいるため、

少々割高でもやっていけるのだろう。


↑ 年末、家へ帰ると、家政婦のチョイ姐が、
  花瓶に山桜の小枝を生けてくれていた。
  数日できれいな桃色の花が咲いた。
  まさに、いま、このときのみに輝いている。

そんなことを考えつつ、熱でぼーっととした頭で、

〝捉えて、認識して、大放出〟をやっていると、

突然、何の前触れもなく、

「自分はいつでも選び変えることができるんだ!」

という気づきの波がやってきた。

自分は紛れもない父の子なんだから、

兄貴を選んで帰ってゆく力は自分にあるんだ、

すぐにでも、決断の主体から選びなおせるんだ、

ということを知って心底驚いている自分。

それはもう、

〝ああ、それ知ってる、誰々も言ってた〟系の、

知識が上滑ったような気づきではなく、

羽生選手が4回転ルッツを飛べるのと同じくらい、

本当にそれができる、という心からの確信である。


これまで、

乖離のベールによって隠されていた心の内部が、

だんだんつまびらかになり、ようやく、

決断の主体の存在が自覚されはじめた。


で、診察を終えて家に戻ると、風邪が治っていた。

熱っぽくも、だるくもない。頭も痛くない。

それでも、大事を取り、家で休むことにした。

よし、

また明日から一生懸命働くぞ!(選びなおすぞ!)

家で休んでいるとき、〝ふっ〟と思い立って、

大阪の実家に電話をしてみた。

妹が出てきた。年始のあいさつもそこそこに、

「お兄ちゃん。さっき、お父さんが酒瓶もって暴れて、

 大変やってんで。みんなで止めたけど、最近、

 ちょっとしたことで妄想して、怒りだすねん。」

と、衝撃の事実を告げられた。

その日、妹夫婦と10歳になる姪が、

正月の挨拶がてら実家を訪れていた。

みんなで一緒に昼飯を食べていたとき、

焼酎を飲みすぎた父に、妹が注意したところ、

「みんなでわしを馬鹿にしやがって!」と、

突然父が酒瓶を振りかざし、

妹に殴りかかろうとしたという。

すぐにみんなで止めたらしいが、

姪は大泣きするわ、父は怒り続けるわで、

てんやわんやしているところに、

タイミングよく僕が電話をしてきたのだった。


父の認知症は特効薬でだいぶ軽減されてはいたが、

酒を飲むと効果が阻害されるらしく、

最近では夜、突然母に怒鳴ったりする。


↑ ふと思いついて、毎日花に合掌していたら、
  29日に生けた花が、8日の今日になっても
  花びら一つ落とさず、まだ咲いている。
  神が宿ったのだ、と思った。

これは僕の勝手な解釈なのだが、

認知症って、肉体の自分(自己概念B)と、

隠蔽された心の中(自己概念A)との境界が、

曖昧になる現象なのではないか、と推察している。

なので、普通なら、投影という形で、

外界に現れるはずの罪悪感が、自分の思考の中に、

怒りや妄想となってダイレクトに入ってきてしまう。


それに、父は認知症だから怒ったのではなく、

父のことを〝認知症〟として接する母や妹に、

自分の怒りを投影してしまっている。


「俺は認知症だから怒っているのではないんだ。」

と、自分の怒りの原因をうまく説明できない父、

「この人は認知症だから。」

と、父を一段低く見て接する母や妹、

どっちも、きついだろうなあ、と思う。


そして、そんな今の僕にできることは、

自分の心が投影している父を赦すことだけだ。

自分の中にある怒りや罪をすべて父にかぶせ、

認知症である父は頭が変で当たり前であり、

故に自分は正常で安全だ、としている自分の

間違った信念を認識し、凝視し、手放してゆく。


そんな父の姿になど騙されない。

ありもしないエゴの幻影はもううんざりだ。

神の子に幻想は必要ない。

どんなウソが見えていようと、自分は兄弟を信頼する。

なぜなら、兄弟に〝イエス〟(はい)と言うことは、

イエス(J兄貴)を選ぶ、ということでもあるからだ。

そうだ、自分はそうやって、

選び変えることができる存在なのだ。