↑「わし、もう疲れちゃったよ!」
なぜか地面に、パパイヤがふたつ
(2016年1月23日/広州東駅にて撮影)
ケリーの後任探しに奔走している今日この頃である。
人材エージェントの反応がイマイチなので、
思い切って給与レンジを上げることにした。
フルセット会計経験者で、理解力があり、
整理整頓ができて、人柄がおおらかな人。
まあ、ここは自分の心の中の投影の場なので、
まずは、心の中でやってるエゴのピコピコを見つめ、
聖霊に手放すことから始める。
そうして、
自分の中の〝愛の本質〟を思い出させてもらう。
ただ、決して深刻にならず〝お笑い〟でやっていく。
↑「よし、もうひと踏ん張りだい!」
ズボンの裾から覗く赤いトレパンがおしゃれ!
奇跡講座には、赦しの3ステップというのがあるが、
僕の場合は、5ステップでやっている。
① 捉える(本当はこの事で動揺しているのではない)
② 認識する(心の中の罪悪感の投影であると認識)
③ 直視する(全て自分で選んでいることを直視)
④ 手放す(自分は愛の存在だと自覚しながら放出)
⑤ 信頼して放っておく(自分には何も分からない)
例を挙げると、
「誰々さんってさ、こういう所がダメだよね。」と、
自分の大切な人(家族や子供や親友など)が、
他の人から攻撃されていたとする。
自分のことなら何を言われても我慢はできるが、
大切な人の事をとやかく言われるのは許せない。
聞き捨てならないとばかりに、そんなことないよ、と
牙をむいて向かってゆく。(ちょっと例がヘンかな?)
そこで、
① 大切な人が侮辱されたから、
カチンときているのではない、ことに気づく。
② 聖霊を拒絶した事で感じる自責の念と罪悪感を
自己の多人格である他の兄弟の上に投影し、
罪人はあの人で、自分こそが正しい、
とすり替えている自分を認識する。
また、相手から直接攻撃されるのは怖いので、
自分の大切な人が攻撃されている事にして、
安心して正義を主張している自分に気づく。
③ 自分で神の愛を拒否する事を選択している事実を、
聖霊と共に直視してゆく。
④ 自分は愛の存在で、聖なる神の子であり、
こんなウソは信じない、と、0と1に分解し、
火山大噴出のようにして放出させる。
⑤ あとは聖霊を信頼して委ね、起こるに任せておく。
まあ大体、こんな風なことを、仕事中も、寝てる時も、
家にいる時も、道を歩いている時も、やっている。
お店に入って、暖房が効いてないな、と一瞬感じた、
微妙〜な〝何だ、この店は〟さえもを捉えて、赦す。
こうしてみると大変そうだが、
最初の〝捉える〟さえできれば、あとは案外できる。
最初は、
苦手な人やシチュエーションを使って赦すのだが、
次第に、ペンが床に落ちたときの〝あっ〟までもを
捉えて、その奥のカラクリを観察するようになる。
で、このブログでも何度も書いているが、
こんなことをずっと続けた結果、
本当に投影が起こらなくなった。
どうも、出来事は起こっているみたいなのだが、
エゴの投影は起こっていないので、平安である。
それに、怖いものが無くなり、全部がお笑いになる。
そうなると、赦しは本当に奇跡だったんだ、と、
余計に聖霊への信頼が増し、その自信が、
本来の神の子の力を取り戻す原動力となって、
ますます、聖霊が幻想に反映されてくる。
僕の場合、実際に兄弟たちが目の前から消えてゆく。
たとえ、どんな人が現われたとしても、平気だと思う。
もう、現実を真に受けなくなっている。