昨日は朝から門真運転試験場まで、
失効した運転免許の再発行へ行って来た。
失効してから3カ月が過ぎていたが、
外国にいて免許の更新ができなかった日本人は、
1時間の講習で5年のゴールド免許が再交付される。
と、思いきや…。
僕の場合、
出入国の際には、指紋認証ゲートを通っているため、
パスポートに出入国スタンプが押されない。
なので、ゴールド免許にしたければ、
法務局で出入国記録を取り寄せてこなければならず、
その出入国記録が無ければ、
3年更新の青色免許しか発行できないと言われた。
それで、さっさと一時間の講習を受け、
三年の青色免許をもらって帰ってきた。
もう、完全に、起こっていることが、
生起しては消えて行っているだけだと解かる。
この世界は、朝目覚めると同時に、
0と1でプログラムされた風景と記憶が立ち上がり、
人生のように見せて流れて行ってるだけなのだ。
もちろん、僕が法務局へ行き、
出入国記録を貰ってくることも可能だし、または、
俺はゴールド免許をもらう権利があるっ、
上の者を出せ、と、掛け合うことだってできる。
そして、それもまた消えてゆく姿であり、
カタチのレベルで、どんな行動を取ったとしても、
結局、同じ〝今日の設定〟でしかない。
ただ、
これが消えてゆく姿だと深く認識しているか否かで、
根底にある罪悪感が削除され、
夢の設定が取り消されるかどうかに、
大きな違いが出てくる。
こういうふうに書くと、
「うん、消えてゆく姿だよね。知ってるよ。」
と、うわ滑り状態で頷いてしまいがちだが、
実際には、完全に兄貴に委ねた状態で、
消えてゆく姿を見れているかが、ポイントとなる。
で、今日は、
近所にある堤防の桜並木が満開になっていたので、
散歩がてら出かけて行った。
堤防に寝そべり春風に吹かれながら桜を見上げると、
花をつけた枝が無数に重なり合い、本当にきれい。
このとき、自分は今神を観ているのだ、と思った。
そうこうしているうち、
香港には、これほど美しい場所はないなあ、
それに、今年の桜も今週いっぱいで見納めかな、
だから、今のうちにたっぷり満喫しておこう、
でもまあ、桜が終わっても、
また、秋には紅葉もあるしな、まっ、いっか。
という〝代替の想い〟が自動的に出てきた。
そして、思った。
なんで神の子の自分が、わざわざ桜を通して、
父(神)を観る必要があるのだろう、
なんで消えてゆくものの中なんかに、
父を感じようとしなければならないのか。
直接〝神〟(父)でいいじゃん。
もう、神の国だけでいいよ。
自分にはその権利と資格がある。
それ以外の〝神のようなもの〟は一切要らない。
桜を通して父を見るのではなく、父を通して桜を見る。
でもまあ、もしそうなったら、
桜も一体の中へと溶けてゆき、僕という個の自分同様、
消えてなくなっているだろうけれど…。
そして、これもひとつの僕の〝段階〟なのだ。
もちろん、桜を見て、
「うわあ、きれい。しあわせー。」でOKである。
僕のような観方をする必要なんてサラサラない。
でも、僕はいま、
直接父へと向かうことを選択しようとしている。
そのために、これまで慣れ親しんできたものを、
惜しみつつも、ひとつずつ手放していっている。
(※正確には、兄貴による強制撤収!)
僕たちは、この幻想の世界を維持するために、
一瞬も気を抜くことなく、膨大な労力を使って、
必死で意識を外へ向けていたのだ。
エゴにしてみれば、
僕たちの意識が外にさえ向いてくれていれば、
その対象が、スマホであろうと、桜であろうと、
最高のパートナーであろうと、引き寄せであろうと、
デイヴィッドであろうと、マハルシであろうと、
何でもいいのだ。
嫌なものだけを手放し、
自分にとって都合の良いものは〝神〟として残す、
なんてことはありえない。
これには絶対に妥協はない。