最近、慈愛を自分に向けて過ごしている。
自分の心の中が、世界に投影されているのだから、
自分の心の中が癒されれば、癒された世界が、
外界に映し出されるのは至極当然のことと言える。
なので、乗り物に乗っている時や、寝る前など、
ちょっとした空きの時間であったり、
カフェで一人コーヒーを飲んでいる時などに、
自分の内に向かって、慈愛の念というか、
聖霊の愛の感じ(うまく言えない)を送っている。
それは、自分の中のどんなことをも咎めず、
全部を受け入れるような眼差しである。
するとやがて、世界が、とても平安で、
穏やかさに満ちているように見えてくる。
多分、喧嘩している人を見ても、もうそこに、
何かの解釈を見ることはないと思う。
でも、当初、ひとりカフェに座ってなんにもしない、
ということが全くできずにいた。
毎回、座ると同時に、本を開くか、スマホを見るか、
でなければ、周囲の人や風景を観察するか、
絶対に、外へ向かって何かしたくなる自分がいる。
これはもう、自動インプットのようにそうなっている。
それで、よく考えてみると、家でも、
じっとしてることがほとんど無いことに気づいた。
要するに、僕たちは決して自分の内側を観ないよう、
外へ外へと意識の矢印が自動設定されているのだ。
ちょこまか、ちょこまか、動き回る心の力動を、
咎めず、抑えず、観る。
その眼差しが心の中を癒やしてゆく。
聖霊は決して試練や苦しみ(肉体的なものも含めて)
を与えることで、何かを学ばせようとはしない。
僕たちを怯えさせることなく、平安の内にいざなう。
もし病気でのたうちまわるようなことによって、
神に関する何かの真実を悟ったのなら、それは、
もともと病気でのたうちまわる設定があったのであり、
聖霊がたまたまその設定を使って導いたに過ぎない。
なので、兄貴は決して僕達を傷つけないのだから、
この苦しみは聖霊からのものではない、
と知っておくことは大切だと思う。
話は変わって、日本へ向かう飛行機の中で、
なぜか〝ひとつの心〟について考えていた。
肉体全体としての自分を、ひとつの心に例えるなら、
一つ一つの細胞が、僕達〝個の自分〟だと言える。
例えば、
自分の肉体の細胞の一つ一つが感じている葛藤、
例えば、白血球がウィルスをやっつけていたり、
酒の飲みすぎで腎臓がフル稼働していたり、
包丁で切った皮膚を修復しようとしていたり、と、
その細胞一つ一つがキツイ状態にあるときでも、
肉体としての全体の自分は、
細胞の苦しみには全く気付くことなく、眠っていたり、
カラオケで歌を歌っていたり、おしゃべりしていたり、
テレビを見ながら笑っていたりしている。
それと同じように、ひとつの心も、
僕達〝決断の主体の断片〟が味わっている
日々の葛藤や苦痛を知ることもなく、
気持ちよくまどろんでいるだけなのかもしれない。
そういう意味で、ひとつの心にとってみれば、
目醒める気なんてサラサラないのかも…。
まあ、本当のところは定かではないが、
こちらはもう、聖霊兄貴にお任せするしかない。
だから、ヴィ瞑想のように、
〝ひとつの心〟の断片である〝個の自分〟が、
細胞一つ一つの想いをちゃんと認識してゆくことで、
ブッタのように目醒めることが可能となってくるのも、
理にかなった話ではある。