会社の昼休み、鶏の胸肉のお弁当を食べながら、
何気なく、ハレ師匠の講義映像を見ていた。
その中で、この世界が夢だと真に理解する方法として
二つの見方を紹介していた。
ひとつは、日々の日常で、立ち顕れては消えてゆく、
様々な出来事からくる想いを見つめ、
これは消えてゆく夢で、本当ではないと、
その都度、認識してゆく方法と、
もうひとつは、夢の外にいる観察者の視点から、
夢を見ている自分を見つめ、それは幻想だ、
と、認識してゆく方法だ。
僕の場合、断然、前者である。
一日中瞑想ばかりしていられる環境ならともかく、
普通に仕事や生活をしている中で、
別の自分が、何かをしている自分を観察する、
なんて芸当ができるとは思えない。
まあ、経緯はどうあれ、僕の経験上、
聖霊云々の前に、赦しの実践云々の前に、
大大大前提として、自分はいま夢を見ているんだ、
と、心底理解をして日々を過ごすことは、
夢を終わらせるうえで非常に非常に重要である。
大抵は、ひとりで、ぼけっーとしている時などには、
「ああ、ここは全部幻想なんだ。」と思えていても、
いざ、誰かとLINEや電話で会話を始めた途端、
その中に没入して行ってしまう。
それで、やり取りを終えた後で、はたと我に返り、
ああ、さっきのも夢だったんだよね、となる。
今の僕は、完全100%ではないかもしれないが、
ほぼ、仕事中も、誰かと話してる時も、寝ている時も、
終始、ここが夢だ、という自覚がある。
この自覚がベースとなり、
これ全部起きてない→ウソなんだ→こんなの要らない
→赦して目醒めたい→聖霊に託して帰ってゆこう
という循環が起きている。
じゃあ、何がきっかけで、ここが夢の世界だ、と、
真に自覚できたかと思い返してみれば、
自分が人生だと思っているこのストーリーが全部、
単なる記憶(データ)に過ぎないと気づいてからだ。
成功して金と名誉を手に入れたって、
負けて一文無しになったって、
幸せな家庭を手に入れたって、病気になったって、
何をどうしたって、それを体験した次の瞬間には、
ただの記憶(データ)に変わっていってしまう。
ものすごく気持ちのいいマッサージを受けたとする。
しかし、マッサージを終えれば、
その気持ちよさも終了し、ただの記憶となる。
また、試合で一位を獲得したり、本が売れたり、
誰かに褒められたりして、ヤッターッ!と思っても、
しばらくするとそれは過去のものとなり、
やがて、空虚感が追い付いてきて、それで、
あのすばらしい時をもう一度追体験するため、
再度、あのマッサージ師の元を訪れ、
試合で再度一位を取るべく練習に明け暮れ、
前回を上回る作品を書こうとする。
インスタやFBに写真を上げたり、
僕のように、ブログを書いたりするのも、
その消えてゆこうとする素晴らしい〝想い出〟を、
少しでも繋ぎ止めておこうとする儚い抵抗に過ぎない。
また逆に、
どんな苦難に遭遇しても、一文無しになっても、
誰かから叱責されたり、攻撃されたりしたところで、
やはりそれも、過ぎてしまえば、ただの記憶である。
たとえ、苦痛が一生続いたって、
いつかは死を以って無と化してしまう。
それで、その苦痛を回避すべく、様々な策略を練り、
少しでもマシな平安を得ようと奮闘する。
そして、それも、最後は記憶となり、きえてゆく。
これって、寝ているときに見る夢と同じじゃん。
こんなのが真実のはずがない、と思ったのが、
夢を夢として見れるようになったきっかけだった。
これが真実の世界であるというのなら、
もうこんな世界なんか要らない、
この世界の全てを放棄してもいい、
それより、本当の心の平安が欲しい、と思ったのだ。
そういうわけで、ただいま、
閉店ガラガラ店じまいまっしぐら、である。