これまで、兄弟てっちゃんちでの滞在中は、
良しにつけ、悪しきにつけ、かならず、何らかの、
自我の葛藤が上がってきたりしていたのだが、
今回の滞在では、そんな想いは一切出てこなかった。
(相手側がどうであったかはわからないが…。)
これもただ、現れては消えてゆき、
そして、それを捉えている〝誰か〟もいない。
眠れる神の子が見ているひとつの夢に過ぎない。
↑胡桃堂喫茶店での語らい
一なる神の子は、父から離れた、という、
罪悪感からくる、巨大な恐怖を忘れるために眠った。
当然、神の子が見ているのは〝罪悪の夢〟だ。
だから、僕たち一人一人に上がってくる〝ふっ〟が、
罪悪の想いで占められているのは至極当然なのだ。
しかし、罪悪の夢の中には聖霊が置かれている。
憎悪や、心配や、攻撃や、防衛の〝ふっ〟の中で、
赦そう、感謝しよう、明け渡そう、委ねよう、
という小さな想いがふっと上がってくるそれは、
聖霊兄貴から発信されたものである。
決して個の自分が、赦そう、とやっているのではない。
だから、〝ふっ〟の想いだけでできている僕たちに
できることは、残念ながらほとんどない。
ていうか、何をやったところでそれは、
自分でやってると思っているだけで、
実際には、どこからともなく湧いて出てくる、
勝手な想いに支配されている。
赦すことでさえ、聖霊からの〝ふっ〟でやっている。
その中で、泡ぶくの自分に唯一できることは、
聖霊から上がってくる想いを捉えることだけだ。
そのときに、エゴでさえ愛だったことが理解できる。
「エゴなんて存在しないよ。バシッ!」ではないのだ。
そうして〝愛の泡ぶく〟で想いが満たされることで、
エゴはピヨピヨと、喜んで消えていく。
また、
最近、夢の世界が変化してきたな、
平安になってきた感じがする、と感じられるのも、
夢を見ている眠れる神の子自身が
癒され始めている証拠だ、と言える。
この幻想世界の夢は神の子が見ているので、
神の子が癒されれば、夢で起きていることが、
愛と調和に満たされるのは自然なことである。
だから、
たとえ、どんなエゴのびゅんびゅんが襲来しても
安心して、聖霊からの〝ふっ〟に集中して、
そこに委ねていればいい。
もともと存在すらしていなかったエゴは、
排除によってではなく、愛によって消えてゆくべきだ。
先週は、甲府でも大阪でも和食三昧だったので、
肉が食いたい、と、さおちゃんに駄々をこね、
ものすごい分厚いタスマニア産牛肉を焼いてもらった
さおちゃんが焼いたステーキはもう、塩加減と言い、
焼き加減と言い、絶妙で、めちゃうまかった。
東京での時間は、
吉祥寺で夕食→朝まで語らい→裸の王様で語らい→
オシャレ喫茶店で語らい→ドカ食い夕食→
さおりっぺと朝5時まで語らい(T大師は爆睡)→
羽田で語らい、とまあ、いつも通りの感じで過ぎた。
10月の後半、兄弟てっちゃんたちは、
乙女ののりちゃん主催のカースティン来日リトリ?
に参加するようだが、以前の僕であれば,
「オレも、オレも!」という感じで参加してたけど、
いまはもう、スピ的な何かの集まりに参加することに、
まったく興味が無くなっている。
それらの集まりに行くことで出会える、
コース兄弟達との語らいは楽しいのは分かっているが、
何ていうか〝誰かを中心〟に何かを学ぶことに、
どんな意味も見いだせないのだ。
と言うわけで、
大阪で会ったコース兄弟の方、てっちゃんさおちゃん、
本当に今回はお世話になりました。