昨日は香港事務所の忘年会だった。
香港では、2月5日の旧正月に向け、
じわじわと春節ムードが盛り上がりつつある。
今回の忘年会は、僕が仕切り、
会社近くにある、川沿のドイツ料理店を予約した。
ガスストーブが焚かれたテラス席で、
ソーセージをつまみに、ワインやシャンパンを飲みつつ、
夜遅くまでわいわい語り合った。
中でも、香港の高度な自治がいかに風前の灯か、
といった中国の思想統制について熱く語り合った。
その中で、台湾は中華圏における最後の民主の砦だ、
という話になり、僕も台湾へ移住したくなってしまった。
赤ワインが三本空き、シャンパンを注文した頃、
全てが、ただの消えてゆく映像に見えはじめた。
撮り終えた映像の中を漂っている感覚…。
時間という幻想だけを頼りに成立している世界を、
僕達は信じてまい進している。
今日のこの映像も、記憶としてファイリングされ、
思い出さない限り〝無〟となる。
もう時間を信じない、と僕が決断するだけで、
映像は消えるしかなくなる。
というわけで、僕の知覚も、また、新たな段階に突入した。
自分は〝始まる前から終わっている世界〟の中にいた、
ということが、バッコーンッ、と真実として見えたのだ。
〝神の世界から離れたらどうなるかなあ〟と思った瞬間
天国も、実相も、父も、キリストも、全てが消え去り、
〝うわっ、やってもうた。全部失った!どうしようーッ?〟
と、強烈な喪失感と罪悪感からくる不安と恐怖と共に、
僕達はこの幻想の世界にやって来たと思っている。
しかし、実際には〝あっ、やばい〟と思う前に、
父とキリストによってこの間違いは削除されている。
そして、すでに終わり、消えて無い〝妄映〟の世界に、
いまだ僕たちは没入し、すったもんだやっているのだ。
こうやって書くと、知ってる、解かってる、と言いたくなる。
しかし、その事実そのものを〝生きて〟はいなかった。
ただ知っているだけで、やはり世界はある、として、
日常の中ではやはり、どうしたこうした、とやっている。
それが、先日の〝宜保愛子と残業〟の翌日、
自分はいま、すでに終わってる世界にいて、
すでに取り消されて無いはずの世界を見ている、
ということに、はっと気づいたのだ。
この机も、このスマホも、あの人もこの人も、これもあれも
うわっ、これ全部、もう終わってる映像じゃん、と…。
始まる前に終わっているのだから、全部幻で、
信じる必要などなく、無意味なただの妄映でしかない。
そのことが、真にリアルに腑に落ちて入った瞬間、
仕事がどうでも、誰々がどうでも、知覚がどうであっても、
もうそんなことはどうでもいい、と心底思えた。
そして、もうここで深刻になる必要はないんだ、
と思った瞬間、言い知れない安堵感が込み上げてきた。
ウソで、虚構で、完全にでっち上げられた世界に対し、
一切の抵抗を止め、ただ終わってゆくに任せておく。
完全に、幻想の外へ出てしまった感覚。
そこから幻想を見ている。
だからもう 「そうは言ってもさあ。」 という反復もない。
そんなことは微塵も起こっていなかった、と、
真に解かって世界を見ていれば、映像に意味は無くなり
どんな現実も自動的に消えてしまう。
消えてしまうことが解かっている状態…。
ここは神で、天国で、実相だった、という事実が、
より強化された感じがする。
と同時に、父や聖霊との交信を阻んでいたのが、
特別性と個別性だったことも見えてきた。
私のこの車、私のこの人生、私の大切なあの人、または、
あの人はいいけどこの人はダメ、男はいいけど女はダメ、
自分は日本人、彼は中国人、私はチーズが嫌いな人、
私の得意なものはピアノと語学です、などなど、
人生は、自分が特別な個であることに費やされている、
と言っても過言ではないだろう。
そして、個として特別であろうとするその意識が、
終わっているはずの世界をリアルにし、永続させている。
これは、神からの救済を拒んでいることを意味する。
別の言い方をすれば、救済されるのが嫌だから、
個であろう、特別であろう、と必死で頑張っているのだ。
しかし、それは無駄な抵抗だ。
だってもう、世界は始まる前に終わっているのだから。
終わっている世界で何をやっても無駄である。
そう、自分はもう、消えている!
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