↑ 夕方の地下鉄。オッサンだらけ。
今週はいろいろ内面的な部分でシンドかったが、
復活祭の連休を家でゆっくり過ごすうち、
ようやく、普段の落ち着きを取り戻せた。
もう〝連休に救われた感〟がハンパなく、
それは、街中で下痢がピークに達した時に、
やっとトイレを探して駆け込んだ時の安堵感に似ている。
そして、ここ数日のきつい体験から、
心の中の自我をただ直視することこそが、
自我を警戒することになる、と学んだ。
またそれは、今この瞬間を直視することでもある。
なぜなら、見るという行為は、
〝今〟ここに顕われてきているものを、
凝視する行為そのものだからだ。
乗ろうと思っていたバスが行ってしまった、
あの人のやり方より、自分のやり方の方がうまく行く、
あの時、あの人に言われた一言が、ふっと蘇ってきた、
あの人が言っていることは、ちょっと違うと思う、または、
うまく行った、褒められた、愛が溢れ出した、などなど、
道を歩いているとき、仕事中、誰かと話している時、
心の中に顕われるものを、ただ捉え、認識し、見つめる。
光をイメージ、などといった余計な小細工は一切しない。
その瞬間、自動的に時間は消滅している。
今この瞬間に在り、自然と自我に警戒している。
↑ たまには贅沢しようと、高級スーパーへやってくる。
一切れ1200円のチーズを見て退散。
自分で何とかしよう、とか、理解しようとする意識を挟まず
ただただ、聖霊の光の中で、手放しで観る。
観ている対象に罪悪感を感じたなら、
それもまた、手放しで、聖霊とともに注視する。
見ることに意味を見出そうとするその動きも、また見る。
すると、何日かのタイムラグを置いて、
自分の中(心臓の奥あたり)に、なんだか懐かしいような
愛そのもののような感覚が満ちてくる。
言葉で表現できない為、愛そのもの、としか書けないが、
それは、僕たちが考えている愛や感謝の感覚とは、
全く違うものだ。
どういうことかというと、
心の中の深い部分から延長されてくるこの愛の感覚は、
外界に対して何の影響も及ぼさず、
幻想世界から完全に独立した、全く別個のものだ、
ということである。
だから、この、内なる愛の感覚を通して世界を見よう、
または、外の世界を愛と感謝で満たそうとしているのは、
他でもない、自我の自分であったと気づくこと、
それが決定的に大切となってくる。
愛を動かさない。
愛を使って何かを見よう、しよう、とした時点で、
それはエゴに変わる。
しかし、こうやって文章にすると、どことなく、
必死で実践しているような印象を与えてしまうが、
根本的に僕は実践が〝好き〟である。
なので、悲壮感や、頑張る感、は少しもない。
それに、僕の場合、アンフィニ時代もそうであったが、
決して結果を出すためにやっているわけではないのに、
実践すると、必ずなにかしらの目に見える結果が出る。
というわけで、今日はイースター初日の金曜日。
一日中大雨で、昼の2時なのに、夜みたいに暗い。
でも、大雨の日に安全な家の中にいるのって、好き。
そう言えば、ここ一週間、お酒を一滴も飲んでいない。
おお、これこそ奇跡だぜ!