香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

愛を動かさない

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↑ 夕方の地下鉄。オッサンだらけ。

 

 

今週はいろいろ内面的な部分でシンドかったが、

 

復活祭の連休を家でゆっくり過ごすうち、

 

ようやく、普段の落ち着きを取り戻せた。

 

もう〝連休に救われた感〟がハンパなく、

 

それは、街中で下痢がピークに達した時に、

 

やっとトイレを探して駆け込んだ時の安堵感に似ている。

 

 

そして、ここ数日のきつい体験から、

 

心の中の自我をただ直視することこそが、

 

自我を警戒することになる、と学んだ。

 

またそれは、今この瞬間を直視することでもある。

 

なぜなら、見るという行為は、

 

〝今〟ここに顕われてきているものを、

 

凝視する行為そのものだからだ。

 

 

乗ろうと思っていたバスが行ってしまった、

 

あの人のやり方より、自分のやり方の方がうまく行く、

 

あの時、あの人に言われた一言が、ふっと蘇ってきた、

 

あの人が言っていることは、ちょっと違うと思う、または、

 

うまく行った、褒められた、愛が溢れ出した、などなど、

 

道を歩いているとき、仕事中、誰かと話している時、

 

心の中に顕われるものを、ただ捉え、認識し、見つめる。

 

光をイメージ、などといった余計な小細工は一切しない。

 

その瞬間、自動的に時間は消滅している。

 

今この瞬間に在り、自然と自我に警戒している。

 

 

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↑ たまには贅沢しようと、高級スーパーへやってくる。

   一切れ1200円のチーズを見て退散。
 
 

 

自分で何とかしよう、とか、理解しようとする意識を挟まず

 

ただただ、聖霊の光の中で、手放しで観る。

 

観ている対象に罪悪感を感じたなら、

 

それもまた、手放しで、聖霊とともに注視する。

 

見ることに意味を見出そうとするその動きも、また見る。

 

 

すると、何日かのタイムラグを置いて、

 

自分の中(心臓の奥あたり)に、なんだか懐かしいような

 

愛そのもののような感覚が満ちてくる。

 

言葉で表現できない為、愛そのもの、としか書けないが、

 

それは、僕たちが考えている愛や感謝の感覚とは、

 

全く違うものだ。

 

 

どういうことかというと、

 

心の中の深い部分から延長されてくるこの愛の感覚は、

 

外界に対して何の影響も及ぼさず、

 

幻想世界から完全に独立した、全く別個のものだ、

 

ということである。

 

 

だから、この、内なる愛の感覚を通して世界を見よう、

 

または、外の世界を愛と感謝で満たそうとしているのは、

 

他でもない、自我の自分であったと気づくこと、

 

それが決定的に大切となってくる。

 

 

愛を動かさない。

 

愛を使って何かを見よう、しよう、とした時点で、

 

それはエゴに変わる。

 

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しかし、こうやって文章にすると、どことなく、

 

必死で実践しているような印象を与えてしまうが、

 

根本的に僕は実践が〝好き〟である。

 

なので、悲壮感や、頑張る感、は少しもない。

 

それに、僕の場合、アンフィニ時代もそうであったが、

 

決して結果を出すためにやっているわけではないのに、

 

実践すると、必ずなにかしらの目に見える結果が出る。

 

 

というわけで、今日はイースター初日の金曜日。

 

一日中大雨で、昼の2時なのに、夜みたいに暗い。

 

でも、大雨の日に安全な家の中にいるのって、好き。

 

そう言えば、ここ一週間、お酒を一滴も飲んでいない。

 

おお、これこそ奇跡だぜ!