自我の思考体系を放棄し、聖霊の思考体系を選択する
ということを、赦しを通して日々実践している。
これまでもかなりなスワット体制で実践はしてきたが、
ここへ来て、もうきっぱりと妥協なくいく、と決断したのだ。
自我と聖霊の間にある葛藤から脱出するには、
どちらか一方をブレなく選ぶ必要がある、と思った。
で、当然だが、僕は聖霊を選んだ。
〝所有することと在ることは同じである。〟
〝愛を所有することと愛であることは同じである。〟
〝全ての人やものを同じと観ること。〟
〝幻想の問題のカタチは全て同じと見做される状態。〟
〝つながることと共有することは同じである。〟
日常で、これらの思考体系を思い出し、当て嵌めてゆく。
そのための助けとなるのが、どの兄弟の中にも、
間違った心(自我)と、正しい心(聖霊)と、
決断の主体(の断片)があり、共通の利害がある、
という点において同じである、という事実である。
また、僕にとって、心の中の罪悪感を直視するとは、
心の中が投影された外の世界を赦すことでもある。
ベールで隠蔽されたはずの決断の主体(心)の中身は、
何のことはない、外の世界(空間)に全て投影されている。
それらを変えようとするのではなく、
決断の主体が何を心の中で選択しているのか、
心を象徴している世界や兄弟をただ凝視し、赦して、
再び聖霊の中(心の中)へと〝間断なく〟返してゆく。
そうやって、心の中の投影の場である世界を赦し、
どんなものも直視して聖霊の光へ運び続けていると、
やがて、世界や兄弟たちは、赦された悦びで輝き出す。
そうして、一瞬光を放った後、世界は歓んで消えてゆく。
また、与えることと受け取ることは全く同じだ、
ということを、実践レベルで深く体感できるようになった。
それは〝差しつかえない〟という言葉に集約される。
どちらか一方だけが何かを所有しているように見えても、
それは〝ひとつのこころ〟が所有していて、
その中に自分も含まれるので何ら差しつかえがなく、
入れ替わり可能だ、というふうに思えてくるのだ。
形態レベルでは、彼の成功が自分の成功に感じられ、
彼女の幸せが自分の幸せと同一に感じられ、
自分が喜んでいれば、世界が喜んでいる。
今日の香港は、労働節(メーデー)で祝日である。
なぜか奇跡的に、朝早く起きることができたため、
コーヒー、ウインナー、目玉焼き、トーストの朝食を摂り、
それから、昨日会社の高速プリンターで打ち出した、
JACIM関係の講義を再度おさらいし、
ゲイリーの〝イエスとブッタがナンチャラ〟を読んだ後、
ジムでたっぷり自主トレをしよう、と、思っていた。
が…、
昼食後、フォーラムの講義の資料を読んでいる途中で、
なんとも抗いがたい睡魔に襲われ、爆睡してしまった。
それはもう、パソコンの強制終了のような感じで、
まるで気絶するように眠った。
午後一時くらいに寝て、夕方六時に目覚めた。
眠っている間、リアルでへんてこりんな夢をいくつも見た。
意識の後方で、何かのプログラムが走っている。
プログラムの更新が行われている様な奇妙な感じ。
そうやって、世界は全て決断の主体が見ている夢だ、
という事実が、ますますリアルになりつつある。
世界が消滅してゆく。
そして、自分の実相は、夢の世界の外側にあり、
そこへ焦点が合い始めた今日この頃である。