昨日は香港から山梨の甲府まで、長い移動の旅だった。
朝8時に香港の家を出て、啓徳空港から成田へ飛び、
そこからバスに乗り換え、甲府へと向かった。
甲府からローカル線に揺られ、降りた無人駅から、
一台だけ停まっていたタクシーで宿へ…。
こうして、街に一軒だけある古い旅館に入ると、
従業員はすでに帰宅し、フロントに鍵だけ置いてあった。
地方の温泉旅館独特の、漆喰と古い畳の匂い。
なんだか、昭和を想いだす。
部屋で一息ついた時は、夜の10時を過ぎていた。
長い長い移動中、僕は、
ひとつひとつの現実(僕の場合は会社がメイン)を、
一つの妥協も無く赦していく、と、堅く決心していた。
一寸の取りこぼしも見逃すことなく、自我は無であり、
自分は自我ではない、ときっぱり否定してゆくのだ。
同僚にイラッとくるとき、チョー緊張する会議の場で、
又は、電車で見かけた人や明日の事を考えている自分、
事がうまく行ってホッとしている自分、などなど、
それら一刻一刻のシーンにコ―スの概念を適用し、
これは自分でもなければ本当でもない、と宣言してゆく。
これまでだって、実践はやってきた。
しかし、どこかまだ、世界に没入していたい自分がいて、
どんなシーンにも警戒する、とは言い難かった。
でももうこんな中途半端な赦しをしていても仕方がない。
少しでも離れていたら、それはもう自我を選んでいる。
で、〝決断の主体から見えている世界〟を守る為だけに
警戒してゆこう、と思った。
こうなるともう、会社で仕事をする事がメインではなく、
また、日常生活を潤滑に送ることが目的ではなく、
仕事を通してコースを生きること、また、24時間、
コースそのものとして在ることが最優先事項となる。
閑話休題。
さっき、自我を否定してゆくと書いたが、
やはり重要となってくるのは、
聖霊を選ぶ、でもなければ、自我を選ばない、でもなく
世界(自我)は〝無〟だ、という完璧な否定である。
しかしまた、これにはかなりの覚悟が伴う。
本気でこれをやり始めると、自我が黙っていないからだ。
経験済みの僕が言うのであるが、僕の場合、
それはもう、巨大な虚無となって襲いかかってくる。
テレビで楽しい番組を見ているだけでも苦しく、
やるせない思いに締め付けられるのだ。
これって、かなりマニアックで、ドン引きな道だ、
と自分でも思う。
この夢の世界で、幸せな愛と調和の毎日を送りたい、
と望んでいる、よい子の皆さんには、
決して、決しておススメしない。
真似すると、どえらいことになるよ!
(↑ しねーよっ! from 読者)
そもそも、コースは準備と覚悟ができていなければ、
真に学んでゆくのは不可能だ、と、
ここへ来て悟った次第である。
それでもいい。
だって、もう後へは戻れないし、引き返すつもりもない。
なぜなら、本当の平安に気づいてしまったから…。
手に入れたと思ったら取り上げられるような、
そんなニセモノの平安など、もう要らないのだ。
こうして深夜、J兄貴を感じながら、
人気のない、ひなびた温泉に浸かっている僕であった。