↑ これが今の僕の心の中
日曜日は人が多いので滅多に外出しないのだが、
ベッドのシーツが古くなって擦り切れてきているので、
新しいのを購入しておいてくれ、とチョイ姐に言われ、
コーズウェイベイにある 香港そごう にやって来た。
案の定、店内は大陸からの爆買客でごった返していた。
ちょっと失礼な表現かもしれないが、
イナゴの大集団が、突如、稲田に押し寄せ、
稲穂を全て食い漁って去って行く感じ…。
それから、最近、とみによく見かけるようになったのが、
お父さんと高校生くらいの息子が手を繋いで歩く光景だ。
父親と息子が、腰に手を回して歩いているのもよく見る。
最初はゲイのカップルかと勘違いしたりしていたが、
不思議なことに、息子と母親、娘と父親、娘と母親、
が〝イチャついている〟場面は見かけない。
なぜか必ず、父と息子、なのだ。
ほんと、奇妙な〝香港あるある〟である。
↑ 今日はこんな恋人つなぎの親子を3組見かけた。
これもむき出しになった僕の心の中だ。ひっ!
シーツを買った後、自主トレをしにジムへ向かった。
トレーナーが格闘技の試合で日本へ帰国しているので、
その間トレができなくなる、ということで、
自主トレで事前に指示されたメニューをこなすためだ。
トレッドミルで30分走り、ダンベルプレスをした後、
120キロのバーベルを担ぎ、スクワットをした。
こうして、聖霊兄貴を常に思い出しながら、
普通に日常生活を送り、その中で湧き起こってくる、
様々な想いをみつめてゆく。
一体何のために、こんな赦しをしているのか、
と、ふと思ったりする。
それはきっと、
この世界とは全く関係のない〝歓び(悦)〟のためだ。
大好きな人と愛し合う歓び、成功のエクスタシー、
大切な人や物や環境に囲まれて過ごす幸せ、または、
あらゆる刺激的な体験からくる快楽、そして、
美味しいものを食べたり楽しい至福のひと時を過ごす、
といった、五感からくる歓びとは完全に無関係な悦び。
その天国(ハート)の悦びは、不変であり、永遠である。
ただ、誤解を避けるために言っておくならば、
その神の歓びを得るために赦しを実践するのではない。
何かを得ようとするのは肉体の自分であり自我である。
神の歓びは、肉体の自分(自己概念B)には属さない。
要するに、
自分の本質は神の子のエクスタシーそのものであり、
それはもう、初めからここに在ったことを智るために、
世界を赦してゆくのだ。
僕は、このブログでも、今日はこんなことした、と、
日常的な出来事についてあれこれ書いたりするが、
まあ中には、日常を語ったり、世間話をすることで、
幻想の世界を実存させていることになる、
と教える教師もいるが、僕の場合、
このブログは、実践の記録として書いているので、
気づいた後の美しい言葉だけを綴っていると、
そのとき、その時代に、自分はどんな状況にいて、
何を考えていたのかがわからなくなるので、
できるだけ、その当時、自分がしていたことを、
具体的に書くようにしている。
また、日常は、
自分が心の中で何をしているかを見せてくれる
大切な投影の場でもある。
だから、僕の場合、日常を語らないと、
日常の中に隠された、実相に戻りたくない思い、
〝神から離れた劇場〟の一つ一つをどうやって赦したか、
が、後々わからなくなってしまうのだ。
ということで、ジムを終え、家に着いた時には、
人酔いで、めまいを起こしたボクであった。