↑ 今日のフィリピンの気温は42℃。
フィリピンへ行っていて、さっき戻ってきた。
6月は、
深圳→杭州→佛山→広州→東京→大阪→フィリピン
ときどき上海、沖縄、で、月末には引越し、とまるで、
売れっ子芸人のような超ハードスケジュールとなる。
10年前ならいろんな所へ行けてワクワクしてただろうが
老体に鞭打つ今は、もうただただ家でお籠りしていたい。
それでも、こんなハードスケジュールだからこそ、
今にいて、兄貴と共に一瞬一瞬を大切に直視していきたい。
閑話休題。
子供を持たない僕が言うのもナンなのだが、
お母さんが我が子に対する〝無条件の愛〟は、
エゴの思考体系で観るか、聖霊の思考体系で観るかで、
まったく違ったものになる、と思う。
自分が腹を痛めて産んだ子供は、
誰よりも愛おしく、特別で重要な存在である。
これはもう、個体を維持する為に必要な〝本能〟であり、
この母性によって人類は存続してこれた、
と言っても過言ではない。
これを、自我の思考体系を通して観ると、
母性は、自分で獲得したものを所有する、という、
混沌の法則の最たるものだと言える。
例えば、かけがえのない大切な〝自分の〟子供が、
病気や、理不尽な理由で死亡したりすれば、
怒り、悲しみ、後悔など、絶望の淵でもがき苦しむが、
もしこれが、隣の家の子に起きたことなら、
この悲しい出来事に胸を痛めはするが、その一方で、
自分の子供でなくてよかったと安堵していたりもする。
たとえ、不幸に遭った母親を心から励まし、
何らかの力になろうとしていたとしても、
その心の奥を、ようくようく見てゆくと、
「もし、これが我が子に起きたことだったら…。」
という心理の裏返しで同情していることが分かる。
要するに、それだけ自分の子は特別だということなのだ。
子供を造る、という、この世界では何よりも尊く、
神聖で愛の行為とされるものが、本当は、
自我の世界を存続させる為の根本的信念となっている。
↑ 半端ない炎天下で作業をする人たち。脱帽。
だが、これを聖霊の思考体系から観てみると、
母性は、我が子の為なら自分の命も惜しまない、
という無条件の愛からきている、と捉えられる。
そして、それは、
父(神)が僕たちに抱いている愛と同質のものだ。
どういうことかというと、
あるお母さんに二人の息子がいるとする。
一人は母親想いの、思いやりのあるよい子で、
家計を支えるため、一生懸命働いてくれる。
もう一人は、ニートで、毎日母親に金をせびり、
家庭内暴力を振るって暴れ回るようなドラ息子だ。
ある時、悪魔がやってきて、
どちらか一人を地獄へ連れて行くから選ぶように、
と母親に迫った。
だが母親は、即座に、
どちらも選べないので、自分が地獄へ行く、と答える。
このとき、母親の中で二人の息子は同等である。
二人の息子が品行方正であっても、殺人犯であっても、
母親の中では、最愛の我が子であり、無罪である。
きっと、神が僕たちを見ている眼差しも、
これと同じなのだ。
夢の世界では、どんなに罪深く見えている兄弟も、
神にとっては、等しく大好きな我が子たちなのだ。
なので、自分の命を引き換えにしてでも、
という、我が子に対する無条件の愛が、実は、
神が僕たち(神の子)に対して抱いている無条件の愛と、
同質のものであると自覚すること、また、
その愛を、あらゆる夢の場面、
自分の子供と他人の子供の間に適応させてゆくこと、
そうすることで、
自分の子供(だけ)に感じていた無条件の愛が、
全ての兄弟の中へと延長されてゆくことになる。
それが、神(父)が子に感じている愛の反映となる。
〝うちの子でなくてよかった。〟
〝長男のあの子に比べて次男は…。〟
〝なんで、こんな子に…。〟
という想いが出てきた時、心の中をじっと直視しながら、
自分は我が子を殺したいだろうか、と問うてみる。
子を持つお母さんはきっと、僕なんかよりずっと、
我が子に対する無条件の神の愛が理解できるはずである。
イエス、ブッタ、デイヴィッド、あやこさん、パパジ、等、
幻想を終えて行こうとする人はみんな子供を持たない、
という事実に、最後の生では子供を持たない方がよい、
と思いこんでいた自分がいたが、
いまでは、どっちでも同じだ、と感じている。
決断の主体に戻れば、みんなひとつの心なのだし、
どうせ、最後はみんな終わる。
ただ、
「決断の主体の位置から観れば、
子供がいようが、いまいが、そんなの幻想なんだし、
関係ないよ…。」
という視点から出発してはいけない、とは思っている。
僕たちは、そこへたどり着くまでに、
まだまだ、いろんな自我の思い込みを隠している。
そこをひとつひとつ見つめ、聴きとめてゆくことが、
何よりも赦しの優先事項となる。
というわけで、明日は土曜日。
セントラルのジムでトレーナーと筋トレをした後、
ミッドレベルのカフェで白ワインを飲みながら、
久々に創作をしようと思っている。
怒涛の6月に向け、鋭気を養うのだ!