火曜の夜、シャワーを浴びようと、
給湯器のスイッチを押すが、全く反応しない。
温度も表示されないし、もちろん、お湯なんか出ない。
早速大家さんに言って、ガス会社へ連絡してもらうと、
修理は最速でも金曜の午後になるという。
仕方がないので、今日から数日、仕事終わりに、
ジムでシャワーを浴びてから帰宅することになった。
せっかくなので、ついでに筋トレもして帰る。
平日夜のジムは混みに混みまくっていて、
使えるマシンなんかほとんどない。
仕方ないので腹筋とかマシンで走ったりして過ごす。
金曜日に給湯器の修理が完了しなければ、
僕のジム通いはさらに延長されるだろう。
ジムがアパートのすぐ近くにあって本当に助かったよ。
というわけで、どんどんハートへ戻って行っている。
一瞬立ち止まり、脳の解釈を止め、沈黙する。
すると、みぞおちの奥から、
ハート(神の気持ち)がじんわりと拡がってくる。
大好き、と、愛してる、と、嬉しいが入り混じった感じ。
そうやって、常にみぞおちの〝そこ〟にいると、
通りの木々や、同僚の声や、世界のあらゆるものが、
ハートの中に在るように感じられてくる。
自分がいま体験していることが父の想いであり、
ハートそのものだったと分かる。
今日、元コンババ部長と電話で話していたとき、ふと、
相手の声が、自分が発した声のように聞こえ、驚いた。
目を通して見たもの、耳を通して聴いたもの、
舌で味わったもの、匂いで嗅ぎ取ったもの、
人種や美醜など、相手の顔の造りで判断されるもの、
または、相手の表情から受け取られる感情、など、
神を思い出させないために脳が解釈を行なっている。
そして罪悪感は、常に首から上を通ってやってくる。
なので、もし、ハートへ向かうコツがあるとするならば、
首から上ではなく、首から下(ハート)で思考することだ。
要するに、
神無しでは、僕達は夢すらも見れないということである。
ジムでシャワーを浴びて帰宅してみると、
部屋がきちんと整えられていた。
靴は磨かれ、 ワイシャツにはアイロンがかかっている。
水やワインやティッシュなども買い足されてあった。
チョイ姐が来て掃除してくれたのだ。
チョイ姐に掃除や洗濯や買い物をお願いして、
かれこれ16年になる。
福建省の人で、旦那の暴力に耐えかね、離婚をし、
香港で新しい旦那を見つけ、今に至る。
ある意味、僕のプライベートを最も知る人かもしれない。
窓からハッピーバレーの競馬場が一望できる。
疾走する馬を眺めていると、形容しがたい感謝と歓びが、
みぞおちの辺りで渦を巻いているのを感じた。
もう、直接神を感じていいんだ、と思ったら、悦びで、
ひゅんひゅん(びゅんびゅんではない)が止まらなくなった。