〝 ♫ 朝起きたら~、男の態度が変わってたあ~ ♪
お暇な時があったらまた来てくださいと言ったら
多分わたしは一生忙しいでしょう、と言われた♬〟
昔『朝起きたら』という曲がヒットしていたが、
今の僕も、朝起きたら、自分の中に神がいた、
という、その衝撃と、感動と、安堵の中、
ハートが愛と悦びと感謝で〝ヒンヒン〟して、
定期的に、わっ、と、涙が込み上げてくる毎日である。
(もう〝キュンキュン〟どころではない。ヒンヒンである。)
父は、ずっと僕と一緒にいた。
〝解釈〟だけが唯一にして最大の問題だったのだ、
と、心底理解して振り向いたら、そこに父が立っていた。
神がいるのなら、私が抱えるこの問題も解決されるのか
という〝疑いの解釈〟だけが問題だった、と気づくこと、
自分はいつも、神と一緒にいたので、自分はいつも
〝この夢の中〟にはいなかった、と知ること、
それが、神に気づくためには決定的に重要だと思う。
僕の場合、みぞおちの奥の辺りにハートを感じていて、
そこから神(父)に触れていく感じ。
ただ、ハート全開、神の想念100%でいってしまうと、
日常でも〝イッちゃった人〟になってしまうので、
普段は、天城越え寸止め状態で過ごしている。
常に神と一緒であることを感じていて変わったことは、
何と言っても、世界に対する見え方だ。
自分と兄弟は全く同じものだ、と100%知っているので、
〝神だ〟というひとつの解釈でしか兄弟を観れない。
これはもう、本当にそういう風にしか見れない。
自分に接するように兄弟と接していると、
俗な言い方をすれば、兄弟にとても優しくなった(笑)。
たとえ、不快感や、動揺や、怒り、を感じたとしても、
これっておかしいぞ、と気づいて立ち止まり、
はちみつを舐めた時に感じる形容できない不変の理解、
(ハートの体験)の中へ入ってゆくと、
やっぱり最後は〝神だ〟となる。
要するに、もう、神しかいないのだ!
そういうわけで、
新しいアパートへ越してから、生活を楽しんでいる。
部屋も大好きだし、職場までの道のりも楽しい。
何より、見えるもの、聞こえるもの全てに神を観る。
しかし、これもまた、うまく伝えられないのだが、
見えるもの、聞こえるものが神なのではない。
なんていうか、神が反映されたものを見ている。
神も自分もこの夢の世界にはいないからこそ、
歓びそのものなのだ。