⇑ サクランボをつまみつつ、よく冷えた白ワインを飲む。
これが今のトレンドらしい。(⇚ ウソ)
僕たちは、日々、見えている世界に様々な解釈を与え、
常にハートを〝びゅんびゅん〟させまくっているわけだが
それはつまり、純粋なハート(神の歓びの想念)の上に、
自分の解釈をのっけて世界を見ているがために、
全てが〝びゅんびゅん〟に感じられてしまうのである。
毎回の赦しの場面において、そのことを思い出し、
自分の解釈を取り下げようとする意志を持てたとき、
僕たちは、神を神として感じることになる。
どういうことかというと、例えば、
Aさんは、貸したお金を返してくれないので腹が立つ、
というとき、本当は神に腹を立てているのである。
また、Bさんは、私をいつも馬鹿にするので嫌いだ、
というとき、本当に嫌っているのは神なのである。
なので、無数の解釈を別々の解釈で観るのではなく、
全てが〝神〟という、ひとつの同じ解釈で見て、
それらの歪んだ解釈を一度にぱっと取り下げたとき、
〝お父さん〟がわっとやってくる。
⇑ 酸っぱいもの屋。あらゆる酸っぱいものを売る。
解釈に気づくことは、神に気づくことであり、
そうやって神を発見すると、
コップや、道行く人や、家族の中に神が反映され、
何を見ても等しく 「神だぁーっ!」 となる。
そして、その神の想いを感じる場所がハートである。
お金が無い、と不安でびゅんびゅんしていようと、
かけがえのない何かを失くして絶望していようと、
また、何かに心が傷ついて悲しんでいようと、
それらの解釈の奥には、神がある。
だから僕たちは、これまで神だけを感じてきたのであり、
常に父の中で、父と一緒にいたのだ。
個の解釈取り下げた先にいる神に気づいていくこと。
それが、僕の赦しであり、癒しである。
そういうわけで、まだ一応、
神の中で、会社へ行き、仕事をしているボクであるが、
誰を見ても、誰と相(あい)対しても、神がいる。
神に見えるのではない。全体が神なのだ。
ていうか、神しかいない。