今日は台風の影響で、会社が午後から休みになった。
会社を出る頃には、雨と風がかなり強くなっていて、
バスの停留所にも、長蛇の列ができていた。
風雨の中、20分ほど待って、ようやくバスに乗る。
湿った革靴が気持ち悪い。スラックスもびしょびしょだ。
バスのエアコンも冷たいし、おまけに道路は大渋滞!
そんな風に、解釈している途中で、
はっ、と、一瞬立ち止まり、
無を考え出していたことに気づいた後、
そこから、神を思い出してゆく。
不快感は即座にハートのエクスタシーへと変換され、
ああ、神だった、と、神でハートがひゅんひゅんしてくる。
まあ、今の僕は、一事が万事、こんな感じである。
片時も離れることなく、常に一緒にいる父に気づくには、
〝解釈〟が大きなキーワードとなってくる。
解釈を認識する、とは、スピでよく言われる、
解釈をしている自分に気づく、とか、解釈を止める、
また、一つ一つの解釈を、赦して聖霊に明け渡す、
というようなことでは、ない。
無は存在しないが故に、解釈自体も存在せず、よって、
何かを考えること自体、何の意味も為さない。
存在しないもの、無いもののことは考える必要もない、
それが、解釈を取り下げる、の本当の意味だと言える。
ハートから見れば、無を解釈するなどあり得ないし、
逆に言えば、解釈を止める、と言った時点で、すでに、
無いものを有ることにしてしまっている。
解釈とは、
ホワイトボードの上に描かれたリンゴのようなものだ、
と、ハレ師匠は言っていた。
リンゴの絵を指してリンゴ、リンゴと言っているが、
実際、僕たちが指していたのはホワイトボードであり、
本当は〝神〟全体を指してリンゴリンゴと言っていた、
ということである。
要するに、僕たちは、神の上でしか何も描けないのだ。
リンゴではなく、ホワイトボードのほうに気づくこと、
ずっと真っ白なまま、そこに存在していた神を観ること、
それが、ある意味、思考の逆転となる。
そんなわけで、
正午に会社を出て、家に着いたのが、1時半だった。
即行、濡れた衣服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びた。
それから〝直撃グッディ!〟を見ながら、
買ってきた〝豚肉と桃の甘酢あんかけ弁当〟を食べた。
部屋でいろいろやろうと思っていたが、結局、爆睡した。
眠りの中で、奇妙な夢をたくさん見た。
寝室のベッドの隣に、洋式の便器があって、
大家さんに広東語で文句を言っている夢。
でも、夢の中の自分は全部状況を理解していて、
辻褄は合っている。
夢の中の自分に身体はなく、
どこか別の位置から映像を覗きこんでいる感じ。
存在しない無を覗き込んでいる感じ…。