⇑ 一階が質屋、二階と三階はカフェになっている。
僕が心の中を赦すとき、
瞑想するように心の内側を見つめてゆくのではなく、
外界に投影されている映像に対して、
そこから受けるイメージを赦してゆく。
わざわざ目を閉じて、心の中を覗かなくても、
無意識の罪悪感は、全て外界へ投影されており、
少しも隠蔽などできていなかったことに気づけば、
世界まるごと自分の心の中だったと分かる。
まあ、せっかく、さらけ出してくれているので、
見えているものを直接赦していった方が、
僕の場合(←ここ重要)解りやすいし、手っ取り早い。
例えば、
いつも誰かの悪口を言っているあの同僚や、
ちょっとおっちょこちょいなこの友人、或いは、
バスを待つ列に横入りしてくるおばさん、など、
全て自分の心の一側面として捉えられるし、
自分の部屋にいるときには、部屋全体が、
自分の心の中の風景として見えている。
なので、同僚や、友人や、見知らぬおばさんを赦すのは
自分の心の中を赦し、癒すのと同じことになる。
または、
誰かの一言に怒りが込み上げてきたり、
突然、大事なものを失くしたり、誰かに裏切られたり、
失業したり、病気になったり、と、
もし、自分をひどく動揺させるような何かが起こったら、
それらの出来事は、さっきまで天国で幸福だったのに、
一瞬でその平安が奪われ、動揺している、というふうに、
心の中で起きていることの象徴として知覚される。
そんなときは、
一旦、思考のブレーカーを落として立ち止まり、
自分の心の中そのものである外界を注視しながら、
決してそれは起こっておらず、故に、
目の前で展開されている風景など、
存在すらしていなかったことを静かに認識してゆく。
そこから、
ああ、世界は本当に無かったんだ、という理解に至り、
あとは自動的にハートが上がってきて、
「ああ、ぜんぶ神だった!」となる。
⇑ ジンと言えばタンカリー。
今日も、フィリピンのクラーク空港へ移動する際、
運転手があまりにノロノロ運転だったため、
空港に着いたのがフライトの40分前で、
その上、イミグレには長蛇の列ができていた。
各フィリピン人に要する出国審査の時間が長く、
列は一向に進まない。
そうして、フライト20分前にイミグレを抜けると、
今度は、セキュリティのエックス線検査エリアでも、
大きな荷物をいくつも抱えたフィリピン人の団体が、
何やらモタモタやっている。
しかし、そんな僕の焦りとは裏腹に、
みんな結構、ワイワイガヤガヤ楽しそうだ。
いま、見えているものから受けるこのイメージこそが、
自分の心の中に抱いている信念であり、
これが赦すべきものなのだ、と自覚する。
フライトに間に合うかな、という焦燥も、イライラも、
フィリピンの人たちも、空港も、果てはこの自分でさえ
本当にあるかのように見えているけれど、本当は、
寝ている時に見る夢と同様、存在すらしていなかった。
そうやってしばらくすると、
本来自分をイラつかせるはずのシチュエーションや、
こっちの空気も読まず、騒いでいるフィリピンの人達が、
何だかとてもハッピーなものの象徴のように見え始め、
それから、あれよあれよという間に、
彼らは神になってしまった。
とまあ、こんな感じで、
外界で起きている事柄を見て、それはホントに無かった、
と、認識されてゆくことが、今の僕の赦しとなっている。