なんていうか、最近、
神がやっている〝ひとつの事〟しか解らなくなっている。
肌に感じる風を解釈するのではなく、
お気に入りの自動車を解釈するのではなく、
夫や妻や両親や親友を解釈するのではなく、
肌に感じる風それ自体を〝感じる〟、
お気に入りの自動車それ自体を〝感じる〟、
夫や妻や両親や親友そのものを〝感じる〟ことが、
神を感じていることであり、それが神の解釈となる。
例えば、
大好きなスマホゲームをしている時、とか、
大好物のロールケーキの味を噛みしめている時、とか、
天職と思える仕事に、寝食を忘れて取り組んでいる時、
など、ゲームや、ケーキや、仕事に対してではなく、
その奥に在る〝大好きな感じ〟自体を感じていること、
それが、神とひとつになっている状態であり、
同時にハートを感じていることになる。
そこにモノがあるというのを感じているのは、
結局、自分の存在感をモノに投影して感じているので、
それは自分自身であり、神の存在感である。
エアコンの風を肌に受けて、寒いとか暑いと感じるなら、
それは、自分の感じ方(解釈)を感じているのであり、
もし、エアコンの風〝それ〟自体を感じているなら、
それは神の感じ方(解釈)を感じているのである。
なので、見えている全ての人、物、事、も、
ひとつの神の解釈が、自分の解釈で歪められ、
スマホや、ペンや、小銭や、誰それとして見えている。
というわけで、思い切りベタな沖縄旅行を楽しんでいる。
〝くるくま〟でカレーを食べ、海辺のカフェでお茶をし、
それから、いろいろ近辺の名所をドライブしてから、
国際通りで沖縄名物 『子宝ちんこすこう』 を買った後、
おもろまちにある、派手な琉球民族衣装に身を包んだ
店員さんが闊歩する沖縄料理店で夕食をとった。
今回の沖縄旅行で一番驚いたのは、ハレ師匠が、
沖縄名物 『子宝ちんこすこう』 を知らなかったことだ。
それに、
漫湖公園のクジラが潮を吹くことも知らないなんて…。
もう、ため息をつきながら赦したよ。(笑)
そして今回の宿泊先は、
『ミスター・キンジョ-』 ではなく 『ナハ・テラス』 にした。
とても落ち着いたリゾートホテルで、朝食もおいしかった。
うれしいのは、朝食券を昼食券としても使えることだ。
これなら、寝坊しても〝食べ損ねる〟ことがない。
ああ、そうそう、
沖縄滞在での最大の赦しも朝食時に起こった。
朝食は、和食と洋食に分かれており、其々場所も違う。
それで今朝、僕は和食を選び、案内された席に着いた。
隣の席では、
ベビーカーに3歳くらいの女の子を乗せた親子連れが、
朝食を食べている。
父親は安田大サーカスのクロちゃんみたいだ。
その父親が娘に向かって、
「おいちいでちゅかあー。」
「もいっこ、食べましゅねー。」
「おさかな、ちょきちょきする、ちょきちょき…。」
と、店内に響き渡る様な大声で、
赤ちゃん言葉を話すものだから、耳障りで仕方がない。
オマケに、娘は父親に顔がそっくり、ときた。
やがて、娘がぐずり出すと、今度は iPadを取り出し、
「アンパンマン見まちゅね。見まちゅねえー。」
と言いながら、大音量でアンパンマンを見せ始めた。
これはもう、すぐさま店員さんがやって来て、
ボリュームを下げるよう、父親が注意されていた。
赦す。
「兄弟は愛しかなく、神と同じものであるが故に、
絶対に、自分を脅かさない。」
(パパとモグモグちて、モグモグ!)
「ということは、自分の解釈が間違っているだけなのだ。」
(お水、ちゅっちゅするよ、ちゅっちゅ。)
「ああ、神しかなかった!」
(パパとおさんぽ、行きまちゅか、行きまちゅねえーっ!)
もう散歩でも四歩でも行って一生帰ってくんなぁー!
で、でも、こ、これは…、
他の誰かのじゃなくて、僕の夢なのか?
ひ、ひいいぃぃーっ!
とまあ、
虫が湧きそうな赦しから始まった沖縄の旅なのであった。