常に神を感じるようになっても、やはり赦しはやってくる。
赦しのプロセスは他の学習者の方とほぼ同じだ、と思う。
咎めや批判や罪悪の思考が出てきたことを認識したら、
即座に立ち止まり、エゴの思考体系を見つめたあと、
一つの解釈(神から分離したという思い込み)に気づき、
すぐに、それは無かった、と夢を否定する。
ただ僕の場合、少し違う点があるとすれば、
最後は必ず神を想い出し、神に至って完了する。
神に至るとは、愛で心が満たされる、という意味である。
今日、仕事帰りにスーパーで買い物をして、
レジで並んでいると、ひとつ前にいたおばさんが、
カート三台に商品を山積みにして並んでいた。
レジは二つしかなく、このおばさんを回避するためか、
もうひとつのレジには長蛇の列が…。
1000香港ドル以上の買い物をすると宅配が無料になる
らしく、叔母さんは配送の伝票に住所を書き込んでいる。
おまけに大量の商品券を使用し、レジの係員が、
商品券番号を一枚一枚機械に打ち込んでいる。
このとき、僕はなぜか心の中で、
僕は愛でできている、兄弟も愛で創られている、
僕は神でできている、兄弟も神で創られている、
と、かなり強い意志を持って宣言した。
途端、どわぁーっ、と涙が溢れ出した。
神の子が見る世界は神の愛に満たされており、
自分は架空の自我に愚弄されるような存在ではない、
という確たる信念に凌駕される。
ヤバい、と思い、僕はとっさにハンドタオルで鼻を押さえ、
「ちょっと風邪気味で、鼻ぐちゅぐちゅですねん。」
という振りをした。
そんな感じで、神を感じれば感じるほど、
それでも、時々、ふっ、と頭の中に湧き上がる、
自我の思考(妄想劇場)にとても敏感になる。
神の愛が根底に流れている状態が当り前になってくると
ほんの少しの咎めも違和感に感じ、即、自我だと気づく。
なので、神が入り、ハートのエクスタシーを感じていても、
お花畑状態になるわけではない。
それどころか、夢の外から眺めるようになるので、
幻想の自分が夢の中で何をやっているのかが、
より鮮明に見えてくる。
やはり、愛(神)を自覚せずに平安には至れず、
神の平安なくして赦しは完結しない、と、
しみじみ感じる今日この頃である。