香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ちょっとだけ不幸

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⇑ 香港にドンキオープン

   ただし写真は、抗議活動過激化前の6月に撮影

 

僕たちって本当に、

 

〝ちょっとだけ不幸〟が大好きなんだな、と思う。

 

ていうか、

 

ちょっとだけ不幸だからこそ平安でいられる、とも言える。

 

逆に、何の代償もなく、100%うまく行ってたりすると、

 

きっと裏に何かあるはずだ、と、不安になったり、

 

きっと大きなしっぺ返しが来る、と、心配になったりする。

 

 

常日頃から、僕たちにとって、100%の幸福、

 

降って湧いたような幸運、代償のない無条件の親切、

 

といったものほど恐ろしいものはなく、それらに対して、

 

自動反射的に恐怖と罪悪感を覚えるようになっている。

 

そしてそれは、神の愛を恐れていることの象徴だ。

 

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⇑ でも店内はスーパーみたい
 

 例えば、

 

旅行のツアーを申し込もうと旅行代理店を訪れたとする。

 

そのとき、カウンターで応対した職員から、

 

 

〝ああ、ちょうどよい企画がございます。

 

 当社があなたを世界一周の豪華旅行に招待します。

 

 5つ星ホテルにお泊りいただき、

 

 飛行機は全てファーストクラスをご用意いたします。

 

 旅で使うお小遣いも、全てこちらで負担しますよ。〟

 

 

と、ニコニコ顔で告げられたとする。

 

絶対おかしい、これには絶対何か裏がある、と思う反面、

 

本当だったらすごいラッキーかも、と思ったりもして、

 

この話を受けようかどうしようか迷いに迷っている時、

 

「実は、わが社では〝豪華旅行をしながらダイエット〟

 

 という新企画を立案中で、あなたにはモニターとして、

 

 この企画に参加していただきたいのです。」

 

と、スタッフが説明を付け加えた。

 

ちょっとだらしなくなった自分の体型にも説得力があり、

 

ああ、そういうことだったのか、と大いに納得し、

 

安心してこの旅行に参加することを決める。

 

 

これがもし、本当に無条件で、

 

何の見返りもなく招待された旅行だったら、

 

あまりに怖くて参加できなかっただろう。

 

また逆に、すっごく気難しい金持ちのオッサンの付き人

 

としてこの旅行に参加してください、というのだったら、

 

絶対に断っていたはずだ。

 

なので、僕たちが、愛の中で平安で在ろうとするとき、

 

これなら許容範囲、と思えるような、

 

〝程よい対価〟を常に望んでいることになる。

 

 

「でもちょっと待てよ。こんなの平安でも何でもない」

 

と、こういう微妙に不幸であろうとする心を観てみる。

 

ただし、どんなうまい話にも疑わずに乗ってみろ、とか、

 

100%の幸せで行動しよう、というような、

 

行動レベルでのことを言っているのではない。

 

何が起こっても起こらなくても、愛は自分を傷つけない、

 

ということを知るために、内側を見てゆく。

 

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すると、実は、これと同じようなことを、

 

神に対してもやっていることに気づく。

 

父の愛は無条件であり、少しの見返りも求めない。

 

なので、父は常に、何の代償も要求することなく、

 

私が持っている全てのよきものを与えよう、と言う。

 

しかし、現実世界で自我に騙されまくっている僕らは、

 

そんなウマい話はない、何か裏があるはずだ、と、

 

恐怖と猜疑心で、即行父の愛を拒否してしまうのだ。

 

 

赦しに於いてもそうだ。

 

故郷である神の国へ永遠に帰還するのが目的なのに、

 

そう易々と赦して、戻れるわけがない、と思っている。

 

結果、一生罪悪感ばかりを観ることとなる。

 

ただ、ここで注意すべき点は、

 

罪悪感を観る必要などない、と述べているのではない。

 

僕だって、隠蔽された罪悪感を直視し続けてきたからこそ

 

自我の思考体系を見破れるようになった。

 

ただ最後は、神の愛に触れなければ赦しは完結しない。

 

 

父はただ、愛と歓びを与えているだけであり、

 

その絶え間なく押し寄せてくる愛と歓びを受け取って、

 

ただ、愛と歓びでプルプルしていることが、

 

自動的に、父や兄弟に愛や歓びを与えていることとなり、

 

それが神の交歓となる。

 

 

世界に対する自分の心の中の見方を変えることで、

 

僕は今、神との交歓を思い出しているのだ。