珠海の出張から戻って以来、
ずっと、Jの励ましを受け続けている。
それは、サポートでもなければ、導きでもない。
僕らと全く同じ目線に立つ、兄貴からの優しい眼差しだ。
そして、珠海での出来事で、
人から裁かれることがこんなに苦しいものなのか
と悟った僕は、もう、金輪際、絶対に、
兄弟のどんな些細な部分も裁くまい、と心に誓った。
僕らは絶えず裁いている。
性別、肌の色、宗教、国籍、職業、住む場所、婚姻、
しぐさ、声、趣味嗜好、服装、体つき、または、
あの人から言われた一言、理不尽な振る舞い、果ては、
自分と違う理論を学ぶ他のコース学習者を裁くことも…。
しかも、なぜか不思議なことに、
本人は裁いていることにさえ気づいておらず、
自分は裁く方ではなく、常に裁かれる側だと思っている。
よって、今回珠海で僕が経験したと思っている投影は、
自分が裁いた者から裁かれている事に気づかせてくれた。
また僕が、裁くことを心から放棄しようと思えたのは、
いつもここに在り、一度も離れたことのない父の愛を、
自分の中に感じられるようになっていたからだと言える。
誤解を避けるために述べるならば、
裁かないことで、父に繋がることができるのではない。
先に、自分の中に在る父の存在を思い出したからこそ、
兄弟を裁くことを止めよう、と本気で思えるのだ。
そういう意味で常に〝神が先手〟でなければならない。
そんな感じで、裁かずに一瞬一瞬を過ごした。
だが、今日は午後から、月イチの部門長会議なのだ。
そう、僕が最も恐怖でびゅんびゅんする、アレだ。
毎瞬、毎瞬、赦した。
兄弟は裁かれるようなことなど何もしていないし、
それは僕も同じだ。
こんな事を言ったり、あんな事をしているからと言って、
それがどうしたというのだ。
全く裁くに値しない。
彼らは、そして、自分も、愛に値する。
まあ、そんな鼻息の荒い僕の心とは裏腹に、
会議はいつも通りに何事もなく終わり、
僕の〝エアびゅんびゅん〟も過ぎ去ったのであった。