ああ。
しゅ、しゅ、首里城が…、も、も、もえてしまった…!
ニュースを見て、
首里城は、本土決戦を経験した沖縄の方たちの、
復興のシンボル、心の支えだった、と初めて知った。
先月沖縄を旅した際、また今度来た時に見ればいいや、
と、首里城には行かなかったことが悔やまれる。
その一方で、
この首里城全焼のニュースからは多くのことを学んだ。
僕は仕事柄、出張で多くの場所へ赴くが、
今後は、ただ行って、仕事して、帰ってくるだけではなく、
訪問先の土地の歴史も少しは勉強しよう、と決めた。
それから、次でいいや、もやめることにした。
言おうかな、行こうかな、やっとこうかな、と思ったら、
迷わず実行するようにしよう。(できる範囲でだけど…)
なぜなら、僕もいい年齢だし、
本当に次は無いかもしれないから…。
また、カタチの世界に永遠はない、ということも学んだ。
台風にしろ、地震にしろ、人生のハプニングにしろ、
どんなに頑張っても、最後は必ず取り上げられる。
なので僕はもう、カタチの世界は信じない。
永遠でなければ実在ではなく、よって世界はない。
また、永遠を求めるとは、神に気づくことであり、
神に気づくとは、普段、当り前に見えているもの、
聞こえているもの、感じているものが、実は神であった、
と認識することである。
僕達は普段の生活の中で、
私のスマホ、去年買い変えたパナソニックのテレビ、
隣に住んでる田中さん一家、コンビニのシュークリーム、
と、あらゆるものを認識しながら暮らしている。
「ああ、これがわたしの、ス・マ・ホ、なんだぁーっ!」と
いちいち感動の叫びを上げつつ生きている訳ではない。
そして、神も、そこにスマホがあると気づいているのと
同じレベルで、ここに在る。
別の言い方をすれば、スマホがあると気づくと同時に、
神にも気づいている。
それはまた、〝わたし〟についても同じことが言える。。
年を取るにつれ、見かけや内面がどんなに変化しようと、
自分という人生をずっと見てきた不変の何かに気づくこと
それが、神に気づく、ということである。
よく考えてみると、生まれてから今日までに経験した、
様々な〝私〟の物語も、ひとたび認知症にでもなれば、
すべて無と化すような、実体のないものであり、
湧いては消えてゆく雨雲のようなものである。
なので、物語の中を生きている自分ではなく、
物語に気づいている不変で永遠の自分に目を向ける。
それが神を観る、聖霊を観る、ということとなる。