今日は仕事帰りに、僕の大好きなブランド、
〝At-Twenty〟で、冬の服を何着か買った。
この店は、名前のとおり、
20代の、若いが故に痩せすぎて着る物がない人向けに
立ち上げられたブランドだ。
なので、
デブお断り、とばかりに、どの服も超スリムなのだ。
僕も、トレーナーのお蔭で、だいぶ痩せたので、
着れるサイズが増えてうれしいのだ。
コートと、ズボンと、緑のVネックセーターを買った。
香港の渋谷、コーズウェイベイに住んでいると、
便利ではあるけれど、誘惑も多い。
ふらっと立ち寄った店で思わぬ無駄使いをしてしまう。
ゆ、ゆ、赦さねば。夢だし…、本当じゃないし…。(笑)
奇跡講座の中に、決断のためのルールという項がある。
〝今日、私は自分一人では、なにも決断しない。〟
〝だから、私は自分が間違っていたことを望む。〟
〝私はこれを見るための別の見方を望む。〟
いかにも、コースの教師がこぞって解説したくなるような、
また、勉強会で、もてはやされそうな字面が続く。
しかし、この項は、勉強会などで、お勉強をするように、
ひとつひとつの文章を解析し、理解しようとしても、
絶対に無理だと断言できる。
ここに書かれていることが真に実行されるには、
神の理解が入っていないと不可能だと思うからだ。
昨日、ソファの上でウトウトしながら、
〝今、自分が見ている夢の現実全てを神に返します。〟
と、意識をさらけ出して神に明け渡していたとき、
ああ、そうか、と理解が起きた。
こうして神に委ねたのなら、今後自分が何を考えようと、
どんな行動を取ろうと、それが神の決断なのだ、と…。
自分では何も決断しないようにしよう、ではなく、
一旦神に委ねたのなら、
一見自分が決断したと思えるようなことでも、
それは神の決断であった、と解かっていることである。
何時に起きて、何を食べて、どこへ行って何をするか、
を全部自分で決めているように思っているが、
要するに、なんにも自分では決めていなかった。
神を想い出し、神の理解と共に在るときにする事は、
すでにそれが神の決断なのである。
⇓ 聖霊に訊いて行動していた頃の恥ずかしい記事 ⇓
何度も書くが、
おにぎり三つは食べすぎかな、とおにぎりを裁いたり、
今度アイツに会ったら、ああ言ってやる、こう言ってやる
と、過去の出来事を思い出して裁いたり、
あの人ヤバそう、と電車の中の人を裁いたりしたとき、
一瞬立ち止まって、
自分は無いものを裁いていることに気づき、
実際には裁くことすらできていなかったことを認識して、
神の理解(ハートの想念/歓びの想念)を思い出す。
そうすると、裁こう、としていたことさえも、
そのことに気づき、赦すための神の決断だったと分かる。
こうして、神の決断を実践し続けていると、やがて、
自我の投影の夢が、神の反映の夢に取って替わる。
これはもう、見事に変わる。
周囲のみんなが突然、人が変わったように優しくなり、
景色が色鮮やかに輝いて見えるのですぐに分かる。
特別な何かが起こったわけでもなければ、
環境が変わったわけでもない。
なんていうか、田中さんは以前と同じ田中さんなのだが、
どう見ても、聖なる田中さんにしか見えない。
といいうわけで、今週は奇跡的に出張もなく、久々に、
朝、会社に行って、夕方帰ってくる生活を送っている。
明日から二日間は、エドワードも出張で留守のため、
僕一人、オフィスでお留守番である。
ひゃっほーい!