〝もしも神から分離したら〟という考えたことが原因で、
幻想の宇宙が作出された、と僕達は思い込んでいるが、
宇宙が本当に無なのであれば、、
もしも神から離れたら、と考えたこと自体も、
自我の作出だった、ということになる。
そうなのだ。
僕たち神の子は、なんと言っても神の子であるが故に、
もしも神から分離したら、などという馬鹿げた事など、
はなから考えたりなどしなかった。
ていうか、考えることすら〝できて〟いなかった。
「もし神から離れたらどうなるのだろう、などと、
お前はとても罪深いことを考えてしまったのだよ。」
ノーッ!
よく考えればわかるが、神と同じ存在である神の子に、
〝もしも…〟などあるはずがない。
僕たちはでっち上げられたウソに騙されている。
だから、
この夢の世界で起こる分離劇場を信じることなどない。
分離劇場を信じないとはどういうことかというと、
全てに〝神の解釈〟だけを見ていること、
言い方を変えれば、
世界が本当に無いことを〝感じている〟ことである。
どういうことか、僕の身に起こったことで説明すると、
先週の金曜、仕事の事で元コンババ部長と色々あった。
というのも、この日は各部署から東京本社へ、
10月の財務資料を提出する最終締め日で、
この日中に、全社の数字をまとめねばならない彼は、
朝からちょっとピリピリモードだった。
そして、僕が彼に送った香港支社の財務資料の中で、
売掛金が合わず、何度か彼と電話でやり取りをした後、
最終的に、いくつかの数字のミスが見つかった。
そのとき彼から、
「星谷さん、最近ミスが多いですよ。
昨日も旧会社のフォーマットで小口清算してたし…。」
と、叱責口調で言われた。
僕の胸がズキンと鳴り、不快感が拡がる。
狭い東京事務所では、彼の声はみんなに筒抜けだ。
これまでなら、電話を切った後、
彼は神の愛に値する、と、色々やりながら赦すのだが、
今回は、胸がズキンと鳴った瞬間、に心が無になり、
何の解釈も起きないまま、この夢の状況を見ていた。
彼は神の愛に値する、とか、聖性を見いだす、とか、
世界は無い、分離は起こってもいなかった、神は在る、
というような、言葉(頭)で解釈した赦しをするのではなく、
世界や分離が本当に無かったのであれば、
なんの言葉も差し挟まず、無いものを無いものとして、
ただ世界をそのように〝見過ごして〟いるだけでよい、
と、このとき、頭ではなく、心で悟ったのだ。
何だコイツ、次はこう言い返してやろう、恥をかかされた、
といった感情や妄想劇場が浮かんでは来るけれど、
また、神からの分離は起こってなかった、神を想い出す、
といった〝赦しの解釈〟なんかもやってはくるが、
それらの反応や解釈を、ただ置き去りにし(←ここ重要)、
起こるがままを、去るがままにしていればよい。
それが、沈黙であり、解釈を取り下げるということであり、
頭ではなく、心からの理解で考える、ということである。
赦しは何もしないし、言葉を必要としない。
本当の祈りは無言で行われるからだ。
しかし、解釈をただ見過ごす、という沈黙の状態を、
長時間続ける必要はない。
ていうか、そんなの不可能である。
瞬間、そうでありさえすれば、聖霊には十分である。
その一瞬の沈黙から、ハートの声を聞き、神へと入る。
また、誤解を避けるために述べるならば、
この、出てくる解釈をただ置き去りにする、というのは
よく、非二元で言われるような、
ただストーリーが起こっては消えて行ってるだけ、とか、
あるがままを、あるがままに受け入れて見る、とか、
何かをしている誰かなんて存在しないんです、
ということだけではない。
そこで立ち止まるのではなく、一瞬の沈黙は、
神の声(ハート)を聞くための前段階であるということだ。
そこから、全部が神だった、という、
たったひとつの解釈へとたどり着くことができる。
僕は、この〝無言の赦し〟こそ、
認識して手放す、というワプニック氏の赦しのステップを、
実際に実践していることになる、と理解している。
なぜなら、
赦しの言葉をも含む、言葉での解釈を取り下げ、
無いものを無いとして、ただ世界を観る(感じる)ことが、
すでに、認識して手放している状態であるからだ。
肉体では、不快感が来ているように思っているけれども、
本当は神(歓び)が来ている。
肉体の自分はいつも、
この、元とコンババ部長叱責ドッキンのように、
自分が作り出した考え(解釈)に怯えている。
しかし、肉体は自分ではなく、それはトリックで、
本当の自己は見えている景色の向こうにいる。
それを、元コンババ部長で見えないようにしている。
自我が無いのであれば、無いように扱う。
それが、今回の不快感から学んだことである。