ごくごく稀に、ではあるが…、
赦すべき葛藤がない、という学習者の方がいる。
例えば、
数年前に、東京でお会いした、ある主婦の方は、
大好きな絵本の仕事をマイペースでやり、旦那は優しく、
経済的にも恵まれ、子供はわんぱくで可愛い。
それに、両親が子育てを全力でサポートしてくれるし、
何でも話せる、気の合うスピ仲間も何人かいて、
毎日が、感謝と共に、楽しくにぎやかに過ぎてゆく。
時には、はあ?というようなことが起こったりもするが、
それこそ、こういう問題にはワークブックのここ、とか、
それでもダメなときは、あの先生、というふうに、
きちっきちっと、ガイドラインに沿ってクリアにされてゆく。
彼女と話していて、
最初はただ本心を隠蔽しているだけなのか、はたまた、
完全に〝お花畑〟の人なのか、と思ったりしたが、
話をしていても、そのような感じは全くない。
普通に幸せに満ちた人生を送っておられる様子だ。
まあ、本人の心の中が実際どうなっているかは、
本人にしか分らないので何とも言えないのだが、
「赦す事柄もないのに、何でコースなんだろう??」
と、当時〝死ねばいいのに〟真っ最中であった僕は、
つくづく不思議に、かつ、羨ましく思ったものであった。
だって、自分にとって、
こんなに居心地のよい世界なのであれば、
わざわざ脱出する必要なんかないじゃん、って…。
でも、神の愛が入っている今なら解かるのだ。
神が在る感覚は出来事や状況とは一切関係がない。
たとえ、赦すべき葛藤がなくても、
そこに神がいなければ欠乏感しかないし、
逆に、いま、どんなに不幸な状況に陥っていたとしても、
神を観じていれば、そこには真の平安が満ちている。
それに、彼女は、
たまたま今回の生で恵まれたタイムラインにいるだけで、
次は、寺内貫太郎一家の長女に生まれ(風吹ジュン)、
藤竜也と駆け落ちする人生かも知れない。(←昭和や!)
なので今回、
たまたま恵まれた状況にいる人の赦し、というのは、
その幸せな日常の中で感じる感謝や歓びの気持ちが、
素敵な夫や、かわいい子供や、楽しいイベントといった、
〝見えているもの〟から来ているのではなく、
それらの奥に流れている〝神の想い〟から来ている
ことに気づくこと、これが幸せな赦し、となる。
別の言い方をすれば、ある人や出来事から、
大好き、ありがとう、優しい、感動、ラッキー、安らぐぅ-、
といった感覚を覚えた時、それは神だ、と気づく。
これこそが、幸せな赦しなんだと気づくということである。
そうなのだ。幸せ真っ最中な人にも、赦しはあるのだ。
それは、幸せの感覚は神の歓びだと気づくことであり、
そこから、神の理解へと入ってゆくことだ。
そして、思う。
僕もここまで様々な赦しを実践して来て、
ようやく、神の反映として兄弟を観れるようにり、
世界が劇的に優しくなった。
まあ、そうでない時もあるが、それでも、世界はない、
ということを思い出せばとても安らかな気持ちになれるし
やっぱり、兄弟は聖なる存在だった、と解かる。
もしこれが、初めから〝いい感じ〟のみの関係だったら、
全く神に気づけなかったと思うのだ。
そういう意味で、僕の夢の中で、ある時は優しく、
ある時は強烈なパフォーマンスを見せてくれる
兄弟たちは、毎分毎秒、
僕に救済のチャンスを差出してくれていると言えるし、
赦すべき何かが現れるからこそ、
神は在る、を認識できる、とも言える。