幻想の世界を実在させてから赦す、ことに警戒している。
例えば、
運転をしていて、割り込んできた前の車を罵った後、
そこから湧き出してくる罪悪感を観て赦そうとしたとする。
この出来事を一旦実在させてから赦すのではなく、
誰も何もしていないからこそ、それを見過ごして、赦す。
そういう〝起きていないが故の赦し〟の状態とは、
どこにいようと、何をしていようと、誰と一緒にいようと、
その背後には常に同じ〝聖性〟が流れており、
その全一の感じこそが神であり、実存である。
本当に神だけが実在で、それ以外実在しないのなら、
コップも、テーブルも、田中さんも、全て神の筈である。
スマホも、料理も、同僚も、隣人も、全て愛の筈である。
なので神以外の解釈に気づいたら、
すぐさま、無意識からくるエゴの勝手な呟きを遮断し、
それは間違っていると取り下げた後、
神だけが実存することを思い出してゆく。
そうすることで、
コップに幽閉してしまった神を解放することができる。
コップが神だった、あ、これもあれも神だった、
えっ、神しかない?ああ、全一でしかない、
コップも、田中さんも、あの嫌な出来事も無いじゃん、
となる。
自分は、神と同じ愛と歓びそのものであり、
実存する靈(スピリット)だと知ることが真の理解である。
とまあ、こんな感じで、
ガンバってる感満載で書いてはいるが、
要するに、
不快感さえも〝神の歓び〟だったという話である。
ある日、実践をしていて、
嫌な出来事が起こり、不快感でみぞおちの辺りが、
びゅんびゅん波打つ感じと、
嬉しいことが起こり、歓びでみぞおちの辺りが、
ワクワクきゅんきゅんしている感じが、
まったく同じであることに気づいた。
解釈が違うだけで、感覚の質自体は同じなのだ。
なので、間違った解釈自体を取り下げるだけで、
罪悪感と思えていたものが、実はそれも、
天国の歓びの想念だったということが思い出されてくる。
だって、神しか実存しないのなら、無いもの(罪悪感)は
取り消されるしかない。
それでもまあ、赦しを実践し始めた初期の段階では、
「この状況を赦せば、来世でこれをやらなくて済む!」
くらいの軽い気持ちでいていいと思う。
目の前の相手が次の自分と思えば、
赦そうという意欲が湧くし、僕も、元コンババ部長を、
最初は、前世の自分と見て赦していたが、
それでも、心が癒されるに従い、最終的には、
彼は神だった、実存は神のみで、彼すらも無だった、
へと至った。
ただ、肉体と見て赦すのではなく、靈と見て赦す。
本当にいるのは神だけで、私や誰々さんではない。
神しか実在していない。離れたことがない。
自分と神の間に区別はない。まったく神と一緒だ。
私は星谷という身体です、というのは成立していない。
神はそこにいて、自分はそこから一度も出たことがない。
それは、コップではなく、田中さんでもない。
霊だ!