〝自分が自分についてどう感じることになるかは、
他人について、いまどう感じているかで決まる。〟
という、ゲイリーの4冊目『イエスとブッタが…』
の中に出てくる言葉を噛みしめている。
大勢の人がいるように見えているけれども、
大元をたどれば、心は一つであり、一つのエゴしかない。
そのため、うわさ話、思い出話、妄想劇場、
「えっ、なにこの人」という瞬間的な想いに至るまで、
何気ない冗談にせよ、たとえ、悪気がなかったにせよ、
自分が他人について話したり思ったりする
どんな小さなことも、それは自分自身のことだと、
ひとつの心には解釈されてしまう。
結果、相手に抱いている〝想い(解釈)〟が、
今度は自分のこととして世界に投影されてくる。
中国語で〝報應〟(応報)と言われるが、
まんざらデタラメではないような気がする。
一方で、すっごいコンババでアコギな人が、
なんの〝応報〟も受けることなく、運のよい人生を歩み、
恵まれた一生を送る、という夢のパターンもある。
まあ、ここからはあくまで僕の空想なのであるが、
分離した肉体を持って存在している兄弟達の中では、
こういった 業? カルマ? 因果? みたいなものを、
今世で順々に清算してゆく人と、
今世でイッキ溜めして、来世で返しまくる人の、
ふたパターンがあるように思われる。
それでもエゴは一つなので、どちらにせよ、
自分が発した思いは、いつかは自分へと戻ってくる。
ちょっと、話が横道にそれてしまったが、
想念は源を離れない、とはこういうことなのか、とも思う。
なので、自分の裁くことからくる想いには警戒する。
ほんの些細な自我も、認識した時点で〝止める〟こと。
そこから聖霊兄貴と共に、神の認識を採用してゆく。
それは、決して来世でよりよい人生を送るためではなく、
実存しないものを〝無い〟と見過ごすことで、
ここが夢であり、実存ではなく、自分はいま、
何もない場所で妄映を見ていることに気づき、
そこから、本来自分がいる場所を認識してゆくためだ。
香港では、
政府への抗議活動がまさにピークに達している。
鉄道がしばしば不通になるため通勤に支障が出ている。
しかし、不思議なことに、香港市民からは、
抗議活動をする若者に対する批判が聞かれない。
みんな、淡々とさまざまな不便さに耐えているし、
ちょっと年上のおっちゃん、おばちゃんたちは、
うちの子が反抗期で、とでも言わんばかりに、
道路の後片付けを黙々と行なっている。
なので僕も、夢の中の人影には一切反応せず、
ただ実存しないものを聖霊と一緒に見すごすことにする。