最近、言葉で赦すことが少なくなってきている。
なんていうか、感覚で赦している。
日常生活で、
何かを心の中で批判していることを認識したら、
即座に立ち止まり、人影に反応せず、ただ見すごす。
やがて、聖霊兄貴が入ってっきて、僕が聖霊となる。
ああ、これは夢で本当ではない、と認識できる。
すると、外界で何が起こっているように見えていても、
暖かい布団の中でまどろんでいる時のような、
不変の平安が、常に意識の背後に流れているのを感じ
そこが神の実存であり、みんな一つの霊(スピリット)だ、
という理解が〝自然と〟湧いてくる。
これまでは、聖霊兄貴と一緒に観るという感じだったが、
いまでは、赦しと同時に聖霊が〝グワン〟と入ってきて
自分と一体になる、という感じだ。
何のことはない。
神だけが実在で、それ以外は実在ではなく、
反応する事は無意味だ、という感覚が出てくれば、
それでもう、聖霊として世界を観れている。
ゲイリーの本の中では、
自分が見ていると分かっている夢の中の〝人影〟に、
一切反応しない、と言っているが、本当にそうだと思う。
無に反応しても意味がない、という本気の自覚こそが、
VR世界からの脱出への第一歩と言える。
あ、そうそう、VRと言えば、最近、
ダグラス・ハーディーの『頭のない男』を読んだのだが、
これってまさに、VR(ヴァーチャル・リアリティ)装置
のことを述べているのだな、と思った。
僕達が見ているこの現実世界も、
VRスクリーンに映る映像と全く同じなのだ、と…。
⇑ フィリピンのイタリアンバーでビールを飲む。
アルコール度数が9%のビールなんだって。
僕達はVR投影ゴーグルを装着し、
眼前に映し出されるVRの映像に没入している。
映像は、没入している自分の奥で、
静かに夢の物語を見ている意識から投影されている。
そして、
僕達(マインド)は、このVR世界を実在だと思い込み、
その中で毎日さまざまな出来事に反応して生きている。
今日、何食べよう、明日子供のサッカーの試合だ、
美容院の予約を入れておかなくては、
今日中にこの支払いをしなければ大変なことになる、
など、日常の悲喜こもごもを映し出すこれらの映像は、
全部このゴーグルの上だけで展開されている。
以前、東京で開催された進撃の巨人展で、
360度VR体験、というのをしたことがあるが、
もう、開始一分で、ものの見事に我を忘れ、
闘いの物語の中へと没入してしまったことを思い出した。
でもまあ、これは一時的な遊びの体験だったので、
もちろん、没入している自分とは別に、
これがただの造られた映像で、本当ではなく、
ゴーグルを外せば穏やかな東京の景色が拡がっており、
ゆえに、映像は決して自分に危害を加えて来ない
ことを知っているもう一人の〝正気な自分〟がいることも
ちゃんと自覚できている。
さしずめ、正気な自分の部分が聖霊兄貴なのだろう。
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ハーディーの時代にはまだ、VR装置が無かったので、
小難しい本を何冊も書き、ワークをする必要があったが、
現在は、実際にVRを体験しさえすれば、
今の僕達の意識が完全にVRの中へ落ち込み、
そこから抜け出せなくなっていることが理解できる。
要するに、天国の中で目隠しをして彷徨っているのだ。
なので、エゴに反応していることに気づいて赦すとき、
僕たちはすでに天国にいて、優しい父の中にいることを、
事ある毎に、意識に向かって語りかけてゆく必要がある。
まず、VRのゴーグルの世界にいることを認識し、
次に、映し出されるウソの映像に反応せず、
それを見すごすことで、これが実存ではないことを、
意識に教える。
最後に、沈黙の中から、
〝神(実存)〟がここに在ることが思い出されて来たら、
赦しが意識へ届いた証拠となる。
そして、いつか、
ゴーグルの映像が、優しい穏やかな映像へと変わり、
最後、ゴーグルは消える。
というわけで、
『浪花節だよ、人生は』ではなく、
『VRだよ、人生は』という話であった。