今日からお仕事である。
と言っても、エドワードも出張で留守のため、
オフィスで一人、終日デスクワークをして過ごした。
パソコン、机、椅子、コーヒー、ホッチキス、コピー機、
何を見ても、そこから神の愛の光が放たれている。
自分は、パソコンや机に気づいているのではない。
すでにここに在る神に気づいている。
また、
「あの件は、今日中に処理を終えておかなければ…。」
「あっ、送金額が間違ってた。やっばーっ。」
「エアコンちょっと寒すぎ。でも、消したら暑いかも…。」
というような、仕事中に湧きあがる様々な思考でさえ、
実は、神の愛の想念だった、ということに気づく。
神の中にいた、もともと神しかなかった、愛だけだった、
という自覚が起きてからというもの、
何を見ても、何をしても、どんな考えが浮かんできても、
そこにはひとつの神が在るだけだ、になっている。
ワイン、仕事、田中さん、と別々に見ていたときは、
ワインの中でもこれ、この仕事は好き、田中さんは嫌い、
と、様々な意味づけをして、反応をしてしまっていたが、
どれも、神という一つの解釈だけだったことに気づくと、
たとえ、嫌い、憎い、といった思いがやってきたとしても、
それも、神の愛、愛してる、となってしまう。
こんなことを思ったから自我だ、ではないのだ。
何を考えても、神の中では神以外はあり得ない。
神以外あり得ないのならば、個の自分もあり得ない。
その神の中の想いそのものが、真の自己なのだ。
眼鏡に見えているけれど、それは眼鏡ではない。
悔しいと思っているけれど、それは悔しさではない。
神だった。
よく非二元の人が、これしかない、などと表現しているが
僕の場合、そこに愛があるので、やはりそれは神である。
例えば、自我と同一化している、と言ったりするけれど、
無い自我と同一化などできない、と思えてくる。
これは、本当に表現が難しいのだが、
今の僕が、たとえ何かに、ちょちょ舞っていたとしても、
それでも、僕は、神の愛の中にいて、愛そのものでいる。
ていうか、
神の愛の中にいる〝僕〟という存在もいないのだが…。
それでも、自分はまだ肉体を持っているので、やはり、
世界の中で、現象を見ながら過ごすことになる。
であったとしても、
神の愛が、ただ表れては消えてゆくだけであり、
自分はその消えてゆく姿を見すごすだけだ。
誰もいないし、なにも起こっていない。
神が在るだけ。