香港さんといっしょ! 純粋非二元を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神だけやん!

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今日からお仕事である。

 

と言っても、エドワードも出張で留守のため、

 

オフィスで一人、終日デスクワークをして過ごした。

 

パソコン、机、椅子、コーヒー、ホッチキス、コピー機、

 

何を見ても、そこから神の愛の光が放たれている。

 

自分は、パソコンや机に気づいているのではない。

 

すでにここに在る神に気づいている。

 

また、

 

「あの件は、今日中に処理を終えておかなければ…。」

 

「あっ、送金額が間違ってた。やっばーっ。」

 

「エアコンちょっと寒すぎ。でも、消したら暑いかも…。」

 

というような、仕事中に湧きあがる様々な思考でさえ、

 

実は、神の愛の想念だった、ということに気づく。

 

 

神の中にいた、もともと神しかなかった、愛だけだった、

 

という自覚が起きてからというもの、

 

何を見ても、何をしても、どんな考えが浮かんできても、

 

そこにはひとつの神が在るだけだ、になっている。

 

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ワイン、仕事、田中さん、と別々に見ていたときは、

 

ワインの中でもこれ、この仕事は好き、田中さんは嫌い、

 

と、様々な意味づけをして、反応をしてしまっていたが、

 

どれも、神という一つの解釈だけだったことに気づくと、

 

たとえ、嫌い、憎い、といった思いがやってきたとしても、

 

それも、神の愛、愛してる、となってしまう。

 

 

こんなことを思ったから自我だ、ではないのだ。

 

何を考えても、神の中では神以外はあり得ない。

 

神以外あり得ないのならば、個の自分もあり得ない。

 

その神の中の想いそのものが、真の自己なのだ。

 

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眼鏡に見えているけれど、それは眼鏡ではない。

 

悔しいと思っているけれど、それは悔しさではない。

 

神だった。

 

よく非二元の人が、これしかない、などと表現しているが

 

僕の場合、そこに愛があるので、やはりそれは神である。

 

 

例えば、自我と同一化している、と言ったりするけれど、

 

無い自我と同一化などできない、と思えてくる。

 

これは、本当に表現が難しいのだが、

 

今の僕が、たとえ何かに、ちょちょ舞っていたとしても、

 

それでも、僕は、神の愛の中にいて、愛そのものでいる。

 

ていうか、

 

神の愛の中にいる〝僕〟という存在もいないのだが…。

 

 

それでも、自分はまだ肉体を持っているので、やはり、

 

世界の中で、現象を見ながら過ごすことになる。

 

であったとしても、

 

神の愛が、ただ表れては消えてゆくだけであり、

 

自分はその消えてゆく姿を見すごすだけだ。

 

誰もいないし、なにも起こっていない。

 

神が在るだけ。