今日の日本は、
成人の日で祝日だったが、香港は平日である。
金曜に日本へ一時帰国するので、月末までの仕事を、
ここ数日で片づけねばならないため、非常に忙しい。
それでも、いま、起こっていることに抵抗しない、
つまりは、いま、ここに在る神に抵抗せず、
忙しいーっ、これもやってあれもやって、きいぃーっ、
という思考をただの思考として観察し、
ただ〝行かせて〟やっていると、
それは現れては消えゆく泡ぶくでしかない、となり、
忙しいながらも、リラックスしていられる。
思考だけでシュワシュワやってたことに気づくと、
何かを恐れる自分もいなければ、
何かを言ってくる他者もいない、と理解が起こる。
ただ、思いが立ち上っているだけで、
自分では何ひとつ考えたり、決めたりしていない。
なのに、
何の脈絡もなくふっとやってくる想いをとらえ、
これは自分が考えた、自分が決めたと思い込んでいる。
実際には、
決めている自分も、何かを思っている自分もいない。
自分が本当に何かを思ったり、決めたりできるのなら、
次に何を思うか、何を決めるかが分かるはずなのに、
次にどんな思考が出てくるか、僕らは知るよしもない。
〝私〟という自覚も、こうこうこういうのが私だ、という
考えが上がってきているだけで、その私に実体はない。
そして、これと全く同じことが他者に対しても言える。
それよりも、
そんなニセモノの私とは関係なく、その背後で、
絶えずたゆたっている〝神の想念〟に気づいてゆく。
なんて言うか、思考や肉体の自分が消えても、
まだ何かが在る、自分が存在している感じ、気配、
それが神だ。
神の想念は、変化することも、消えることもなく、
いつもここに在って、愛と悦びそのもので存在している。
それは、恋をした時や、春の息吹を感じた時に起こる、
キュンキュンするような、ムラムラするような感覚、
または、
何かに感動しり、誰かの優しさに感謝した際に生じる、
愛と歓びの感じに似ている。
例えば、
ケーキを食べて、おいしいーっ、と感じているとき、
それはケーキではなく、神のを感じているのであり、
誰かに「ありがとう」と言う時、それは神に感謝している。
その単純な事実に気づくことが、
神に気づく、ということの意味である。
そして、
何より間違えてはならないのが、神に気づいたとき、
「あっ、神だ!」と気づいた自分が自分なのではなくて、
気づかれた神の方に真の自分がいる、と理解すること、
それが神を理解することであり、
真の自己(スピリット)を発見するということになる。
それでは今日はこの辺で、さいならー!