もうすぐ一時帰国休暇だから、ということで、ここ数日、
ハイスピードでガンガンに仕事をこなしまくったおかげで、
今日はなんだか、よっゆー、の一日であった。
しかし、こういう、調子コイてるときに限って、
ドッカーンが来るので、現れては消えてゆく幻想の今を、
ただ淡々と見すごしてゆくことにする。
現れては消えていくのは人の想いだけではない。
今現れている、景色、肉体、物事も同様に消えてゆく。
そして、本当にあるものは消えてゆかない。
見えているけど、無い。本当に、無い。
誰かがいるけど、いない。本当に、いない。
起こっているけど、起こってない。本当に、起こってない。
そして、これらの真実は、
いま、ここに見えている風景に抵抗しない、
いま、ここに湧き上がっている想いに抵抗しない、
いま、ここに顕れている出来事に抵抗しない、
ことで真に認識される。
抵抗しない、というと、ついつい、
抵抗しないようにしよう、としてしまうのが常だが、
そもそも、何かに抵抗している自分などなく、
抵抗しないようにしようという思いが勝手に起きている。
また、危険が迫っていても、不当に扱われていても、
何もせず、なすがままでいることなのか、
というとそういうことでもなく、
たとえ、対処したり、言い返したりしたとしても
それもまた、そういう思いが勝手に起きているだけで、
言い返している意識などどこにもいないことを、
心が知っていることである。
また、いまここにあるものに抵抗しない、というのは、
聖霊として観る、ということでもあり、なんていうか、
無い、いない、起きてない、という言い聞かせではなく、
あっても平気、いても差し支えない、起きてても大丈夫、
だって無いから、といった完全リラックス状態を指す。
そこから、あっ、神だけやん、となり、
神に気づいた途端、全てが愛と悦びに逆転する。
と、ここまで書いてこんなことを言うのも恐縮なのだが、
神に気づこうとしても、そのことが起こるまでは、
神に気づくことができない、ということである。
それはテーブルではなく神だった、と理解が起こるまでは
テーブルはテーブルであって、神ではないということだ。
要するに、個の自分にできることは何もなく、
唯一できることは、神に気づく、ということが起こるまでは
何もできないと観念しながら探求を続けることである。
なので、
正しく、堂々と、探求を続けてゆけばよいのだ。
それは違うんですよ、探求など無意味なんですよ、
という教師など放っておけばよい。
王道を行くのがもっとも近道だと思うから…。