香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

故郷の夕暮れ

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金曜の夕方、大阪へ戻ってきた。

 

だが、関空に着き、早速ATMでお金をおろそうとしたら

 

三井住友のカードがお取り扱いできません、となる。

 

クレジットカードでも同様に取り扱いできない、と出る。

 

何度やってもダメで、手持ちの日本円も、外貨もないし、

 

このままでは実家までたどり着けない。

 

それでも、実践SWATな僕なので、さほど慌てることなく

 

悦びながらテクテク歩いていたら、案内所があったので、

 

そこのお姉さんに、こうこうこうで、と事情を説明したら、

 

カードに書いてある電話番号へ電話してみては、

 

と言われ、それで電話してみたら、担当の人がでてきて、

 

色々調べてもらったところ、前回プレスティアの支店で、

 

カードを一新した際、住所が海外になっていたため、

 

ブロックがかけられている、ということが判明した。

 

早速、解除してもらい、なんとかお金を下ろせた。

 

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関空特急はるかに乗ろうと、切符売り場へ向かえば、

 

春節を日本で過ごす中国の人たちでごった返していた。

 

皆、券売機の扱いに慣れておらず、全く列が進まない。

 

そこで、とりあえず直通バスで茨木まで行くことにした。

 

バス停で荷物を預ける兄ちゃんから、阪急茨木ですか、

 

と聞かれたので、思わず「いえ、国鉄の茨木駅です。」

 

と答えてしまい、ひゃーっ、となった。国鉄って…。

 

お兄ちゃんは無言でJR茨木の荷物引換券をくれた。

 

電車通学してた時の習慣が残ってたんだね、きっと…。

 

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バスの中で思った。

 

現金が引き出せないと知った時、

 

案内所のお姉さんに訊きいてみよう、と思ったのも、

 

JRの券売機の前で、中国人たちの長蛇の列を見た時、

 

とりあえずバスで家の近くまで行こう、と考えたのも、

 

バズ停で、思わず、国鉄茨木駅、と答えてしまったのも、

 

全部、そういう思いがふと湧き上がって来たのであって、

 

自分で考えたのでも、自分のアイデアでも何でもない。

 

 

現金が引き出せない、どうしよう、となった時、

 

どうして、案内所で訊いてみる、ということは思い立ち、

 

直接カードに書いてある電話番号に電話してみよう、

 

とは思わなかったのか、なぜ、阪急茨木駅ですか、

 

と聞かれ、国鉄茨木駅などと口走ってしまったのか、

 

そんなこと、勝手にふっと思いが湧いてきただけであり、

 

自分で決めたことでも、自分の選択でも、何でもない。

 

なのに、

 

なんであの時、あの事に気づかなかったんだろう、とか、

 

どうして、自分はあんな言葉を発してしまったのか、

 

などと思ってしまう。

 

 

これは自分が考えて取った行動であり、発した言葉だ、と

 

なぜかそう思っているので、それがうまくいかなかったり、

 

思いもよらない不運な出来事を引き寄せてしまうと、

 

何であの時、と自分に罪悪感を感じて責めてしまうのだ。

 

または、自分が感じた罪悪感を他者に転嫁し、

 

「いやいや、あの人がこうだったから、私はああなった。」

 

と他者を責めたりする。しかし、元ネタは全て自分だ。

 

 

こう考えてみると、自分で決めていることなど一つもなく、

 

何にも自分で決めていないのであれば、

 

何かを決めている自分など、存在していないと分かる。

 

自分がいないのに、罪悪感を感じるなんて、おかしい。

 

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よく、

 

自分で赦しをやろうとするのではないんですよ、とか、

 

今に在ろうと〝努力〟するのではないんですよ、とか、

 

ついつい神に〝気づこう〟としてしまうんですよね、

 

と、スピ教師たちが述べたりするが、ノー!

 

もともと、やろうしている自分など無いのであるから、

 

赦そう、今に在ろう、神に気づこう、という思いが勝手に、

 

シュワシュワ湧いてきたのであれば、やればいい。

 

だって、それは、自分で選択しているわけではないので、

 

「ああ、自分がやろうとしている。」

 

なんて、自分を責める必要などないのである。

 

それが、いま、ここに在る神に抵抗しない、ということだ。

 

 

まあ、こうして、無事実家へ戻った。

 

父はまだ僕のことを息子だと認識してくれていた。

 

今回は、関西から出ないつもりである。

 

だって、どこへ行っても、神しかいないのだから。

 

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