香港さんといっしょ! 純粋非二元を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

消えゆくわたし

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昨日は、両親と梅田でランチ懐石を食べた。

 

丸ビル内にある桂という店で、料理もおいしいし、

 

静かで明るいので、両親との食事は大体ここでする。

 

単品料理が一つ一つ運ばれてくる懐石だと、

 

食べるのが遅い父の気がせいてしまうので、父だけ、

 

いっぺんに全部の料理が出てくる御前ものを注文した。

 

 

父は、最近、少しきつめの薬に換えたとかで、

 

変な言動がなくなった代わりに、いつもぼーっとして、

 

何を聞いても反応が鈍く、無口になった。

 

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というわけで、人が話していることに対して、

 

何でそんなことを言うんだ、とか、それ違うんじゃない、

 

と思ったり、実際に口に出して言ってしまったとき、

 

そこには、何かを言ってる他者も、反応している自分も、

 

誰もいなかった、という話である。

 

 

先日、コース兄弟たちとカフェでダベッっていた際、

 

僕が他の人の事をあーだこーだと話しているのを聞いた

 

とあるコース兄弟が、それって赦せないんですか、

 

とおっしゃった。

 

咎められたという思いと共に、罪悪感が出てきた。

 

そして次の瞬間、ああ、罪悪感って、このようにして

 

実在化されてゆくのだな、と気づいた。

 

 

どういうことかというと、

 

香港さんが誰々さんのことをこんな風に言っている、

 

という思いの裏には香港さんという個が実在している。

 

また、

 

自分はあの兄弟から咎められた、という思いの中には、

 

〝あの兄弟〟という個が実在する。

 

何かを言っている誰かがいる、という前提で、

 

この会話が成立している。

 

そしてその〝幻想の個〟から罪悪感が生じている。

 

 

なので、罪悪感を生じさせる元となっている信念、

 

そこに誰かがいるという思い込みを看破すること、

 

何かを考えたり言ったりしている誰かなど存在せず、

 

ただ、そういう思考が立ち上がっているだけなんだ、と、

 

いうことに気づくことが、罪悪感を直視することとなる。

 

 

なぜなら、ようくようく、その思いの根源を見てゆくと、

 

ただ、誰々さんはあーだこーだ、という思考が、

 

勝手に湧いて出てきたから、それを話しているだけで、

 

そこには、誰々さんのことをあーだこーだ思っている、

 

〝僕〟という主体は実在しない。

 

 

また、相手が言ったことに対して、なぜ赦さないんですか

 

と思った相手も、そういう思考が〝ふっ〟と起こったから

 

そう言っただけであり、これを言おう、と決めて言っている

 

〝相手〟などどこにもいない。

 

 

逆に言えば、

 

これを言おうという思いがどこからか起こってこない限り、

 

僕たちは、それを言うことができないのだ。

 

そもそも、考えて何かを決めている自分がいないので、

 

ただ、クジラが潮を吹くように、

 

シュワシュワと立ち上る思考の泡ぶく同士が、

 

シュワッ、シュワッ、と、声と共に勝手に噴出しているのを

 

誰々さんが何か言っている、と見ているだけである。

 

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だから、ある覚者が、商品をボラれた、と、

 

店先で大ゲンカをしているからと言って、

 

その覚者がニセモノだ、ということではないのだ。

 

第一、言ったことや、やったことによって

 

その人が何者であるかが決まるというのであれば、

 

真理を口にするマスターと呼ばれる人がすごくて、

 

子供にガミガミ言っているお母さんはまだまだだ、

 

ということになる。

 

何をしてても、してなくても、すでに神はここに在る。

 

 

なので、誰が、何を言おうと、何をしようと、何も悪くない。

 

意識から湧き出す思考同士がシュワシュワしてるだけで

 

悪い、と指摘できる誰かはどこにも見つけられない。

 

 

そして、個の誰かなど無かった、と完全に理解して、

 

思考を見すごすことで、罪は無かった、と解かる。

 

聖霊お願いします、とやらずとも、理解して、

 

見過している時点で、すでに聖霊と一体になっている。

 

 

何かを言ったその人が、その人〝本人〟ではない。

 

何かを思っている思考が〝自分〟ではない。

 

神に気づいているのが自分ではなく、

 

気づかれている神側に真の自己(霊)がある。

 

 

いま、目の前で起きていることが神の愛だった、

 

と気づくことが〝いま、ここ〟の神髄なのだ。