香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

心地いい、でいいじゃん!

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👆 一か月ぶりにトレーナーと筋トレをした 👆

  なぜかサンドバックマンに獅子の被り物が…

 

 

今日、家でようつべを見ていたら、おススメの欄に、

 

関野あやこさんの新着動画が出ていたので、

 

なっつかしいーっ、と思い、しばし覗いてみた。

 

 

統合、ワクワク、本当の自分に繋がる、シフト、など、

 

内容は当時と全く変わっていない。

 

あまりにブレない姿勢に、感動してしまったほどだ。(笑)

 

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僕のスピデビューは、2011年のアンフィニである。

 

これは、

 

統合というメソッドを使って、ワクワクに行動することで、

 

本当の自分へ戻ってゆき、自分がやりたいことを、

 

高い意識で実現させてゆく、というもので、、

 

バシャールとチャネリングしていた関野あやこさんが、

 

当時、生徒を集めて様々なワークを展開していた。

 

だが、ワクワクに行動した結果、アンフィニは破産し、

 

誰をも傷つけないはずが、前払いで払った料金は、

 

多くの人に返還されなかった。

 

そうして、僕や、乙女ののりちゃんや、兄弟てっちゃんは、

 

その後、奇跡講座へとシフトしていくことになる。

 

 

そしていま、この動画を見ながら、ふと思った。

 

バシャールが言うこの〝ワクワク〟という言葉こそが、

 

様々な誤解や勘違いを生む元凶だったのではないか、

 

と…。

 

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ワクワクの意味を辞書で引いてみると、

 

〝期待、喜び、興奮などで心がはずみ、高揚するさま〟

 

とある。

 

しかし、ようく考えてみれば、いや、考えるまでもなく、

 

24時間ワクワクでいることなんて不可能だよ。

 

なぜなら、人生、山あり谷あり、落ち込むこともあれば、

 

何をやってもうまく行かない時期だってある。

 

病気になったり、愛する人を失ったり、米が無かったり、

 

そこからは、様々なネガティブな感情も生まれてくる。

 

そんな時、いくら鉄の球体を転がしたって、

 

つらいことはつらいし、悲しいことは悲しい。

 

こんなの、何かのメソッドで解決できるものではない。

 

 👇 アンフィニ時代いろいろ 👇

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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なので、今の自分は〝ワクワク〟ではなく,

 

〝心地よい〟でよいのではないか、と思っている。

 

ちなみに〝心地よい〟の意味を辞書で調べてみると、

 

気持ちがいいこと、快適であること、とある。

 

 

なぜなら、どんなに人間関係が最悪であっても、

 

愛する人を亡くした直後であっても、

 

失業中で、まったく未来への希望が見えなくても、

 

心地よいこと、ホッとするようなこと、気持ちいいこと、

 

例えば、ちょっとしたカフェでコーヒーを飲んだり、

 

誰もいない森の中に車を停めて思いっきり泣いたり、

 

映画館で映画を観たりすることは可能である。

 

 

いま、この瞬間に、心地よい場所で心地よくいること、

 

それは、何も、愛と感謝と調和、である必要はない。

 

とても悲しいことがあって、どうしようもないとき、

 

思い切り泣くことが、最も心地よいことであったり、

 

相手に対し、ちょっと違うんじゃないの、と感じた時、

 

相手にきちっと〝私はこう思う〟と伝えることが、

 

自分にとって、一番心地よいことなのかもしれない。

 

腹が立って仕方がない時に赦しなんてできないし、

 

ましてや、聖霊に祈っても、やはり怒りは収まらない。

 

だって、もう、いま、すでに腹が立っているのだから…。

 

だったら、その瞬間、一番心地よいことは何かといえば、

 

自分に思い切り怒らせてやることだ。

 

www.youtube.com

👆 6:04 辺りからアンフィニの音楽あるよ!👆

 

ただ、一応(笑)、僕たちはコース兄弟なので、

 

せめて最後には、その怒りでさえ本当は神だった、

 

というところまでいきたい。

 

 

そうやって、最後には

 

神の悦び(愛)を感じている〝わたし〟が神だった、

 

ではなく、

 

神の悦び(愛)そのものが〝わたし〟だった、となる。